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べんてんー本編

「琵琶、でございますわね。お嬢様」
 黄昏の、昼と夜との間の危うい瑠璃色の景色の中に、どこからともなく風に載って運ばれてきた琵琶の音色が溶け込んでおりました。その音色はさざ波のような蜩(ひぐらし)の鳴き声と呼応し、重なり合い、時に浮き立って、わたくしたちの耳に緩やかに入って参ります。
お嬢様は部屋の椅子にお座りになって外を眺めながら、わたくしは洗い立てのペチコートをお嬢様の箪笥にしまいながら、その音色に身を委ねておりました。お嬢様が答えられるよりも先に、わたくしが続けました。
「旦那様は何でも西洋のものがよろしい、日本のものは遅れていると申しますけれど、なかなかどうして日本にも素晴らしいものはございますわね」
 すると、お嬢様はまるで表の蜩の声のような、澄んだ声で「ええ、そうね」とだけ、鈴を小さく二鳴らししたようにお答えになりました。
 お嬢様の黒い瞳はどこか遠くにあるものを捉え、心ここにあらず、といった雰囲気でございました。小町のお屋敷をあまり出ないお嬢様の白磁のような肌は、夕闇の中にも関わらずいっそうきめ細やかで、燐光を放つようでありました。
 わたくしは声には出さなかったけれど、恋でもしていらっしゃるのかしら、と思いました。

 今となって思い出せば、この琵琶を聞く一週間ほど前から、その徴候はじまっていたのです。お嬢様はお食事を殆ど召し上がらなくなりました。わたくしを含め、屋敷の者はてっきり夏ばてをしていらっしゃるんだろう、と思っていました。それで、うなぎを食卓に乗せてみたりもしたのですが、殆ど箸をつけられませんでした。きもすいを少し飲まれただけでございました。
 お食事のとき、お嬢様がこんなことを言われたことがありました。わたくしが「もっと、食べて精をつけなくては、いけません」というようなことを申したのだと思うのですが、そのお答えの代わりに、花瓶に活けてある山百合の香りを嗅ぎながら、
「どうして私達は、花の香りと蜜だけで生きられないのかしら」
 なんてことをおっしゃったのです。わたくしは、感性の強い女性というのは、訳の解らないことを言うものだなと思って、言葉を返さずにいたのですが、今思えば、お嬢様は全くの恋煩いで、うなぎを食べる人間ではなく、想い人に愛でられ、香りを芳がれる、花になりたかったのでございましょう。

 それは、陛下が東京に移られてから、数年を経た夏の出来事でございました。
 華族の中では一、二を競う西洋かぶれだった旦那様は、お嬢様に西洋の御婦人と同じ、色鮮やかなドレスを与え、外国人の教師を雇い、西洋の学問や音楽を学ばせになっておいででした。
 無き奥様の忘れ形見であり、一人娘であるお嬢様を旦那様は、それは大事になさっておりました。
 また旦那様御自身も、織田信長の肖像画そっくりのお顔に口ひげを生やし、西洋の服に身を包み、葡萄酒と葉巻をこよなく愛しておられました。けれども、目白の本邸や、この八幡宮に程近い鎌倉の小町の別邸に使えるわたくしのような奉公女にまで、西洋の召使いと同じ、黒いドレスと白い前掛け、それに小さな頭巾のような、白いカチウシャとかいうものを被らせるのは少々やり過ぎではないかと、わたくしは内心思っておりました。
 全てが、文明開化という暁に照らされ、早春の新芽のように上へ上へと向かって行く時代の中で、それは溶け残った古い雪のような、散り忘れた花びらのような、古い時代の一瞬の残り香が見せた幻のような出来事でございました。


 琵琶の音色が聞こえてから、二、三日経った、真夜中のことでございました。厠に立ったわたくしが女中部屋に戻ろうとすると、また琵琶の音が聞こえてまいりました。
 虫の音はまだ聞こえない、真夏の夜でございます。黄昏時のように、蜩の声などの他の音と重なりあうことなく、張り詰めた弦の音が、満月の光の下で響き渡っておりました。
 古い物語の中に入り込んでしまったような、えも言われぬ響きは、この世のものでは無いようで、わたくしは同時に恐ろしさも感じていました。
 琵琶の音はお屋敷の中から聞こえているように思いました。夢が現か分からぬような心地の、美しさと恐ろしさと好奇心に突き動かされて、音のする方へ辿っていくと、それはお嬢様の部屋の方から聞こえているようでした。
 見ると、お嬢様の部屋の扉が二寸ほど開いております。わたくしはいけないことと知りつつも、扉に顔を近付けて中を覗いてみました。そして刹那、息ができなくなりました。
 お嬢様が見知らぬ若者と抱き合っておられました。若者が現のものではないのは、明らかでした。若者は髷を結っているものの、先日までの徳川の御代の頃に見たような二つ折りにしておらず、髷を布で包み、筆のように立てておりました。さらに、月代(さかやき)も剃っておらず、恐らく徳川の御代よりも前に死した者なのでしょう。
 背は高くなくとも、程よくついた筋肉は見事で、毘沙門天を思わせました。けれども顔は女のように美しく、高貴さを漂わせておりました。
 寝台の横の開け放った窓では、風もないのに、絹のカアテンが天女の衣のように舞っていました。そしてその窓の脇では、琵琶が宙に浮き、独りでに楽を奏しております。
 お嬢様の顔は恍惚で満ち、心現ではなくなっておりました。二人は熱く絡まりあっているにも関わらず、下衆びた感じはせず、二疋の白蛇が縺れあい、畝るように、二人の四肢と唇は波打っておりました。
 そして、この酷く美しくて酷くおぞましいすべての光景を照らし出しているのは、青白い月の光でした。
 ふと、若者がわたくしに気付いたのか、こちらを向きました。冷たく美しい瞳とわたくしの目が合いました。けれども、若者は何も無かったかのように、またお嬢様の躰をかき抱き、白く柔らかな乳房に顔を埋めました。
 その瞬間、わたくしは我に返り、廊下をかけ戻り、旦那様の部屋の戸を叩きました。出て来た旦那様に、混乱したわたくしは、息を荒げながら「お嬢様が、お嬢様が」と言うのが精一杯でしたが、旦那様は、わたくしの様子からただならぬことがあったということを察知し、お嬢様の部屋へ飛んでいかれました。
 そして、二寸の隙から覗くのではなく、大胆に扉を開け放ち、そしてそのまま扉の前でへたり込んでしまわれました。
 異変を察知して、使用人たちがお嬢様の部屋の前へ集まって来ました。旦那様はへたりこんだまま、
「見るな。近付いてはならぬ」
 とところどころ裏返った声で叫び、扉の前に出来上がった使用人たちの輪が、後退しました。
 旦那様は、ガクガクと震える足で立ち上がり、
「銃だ。銃を持って参れ」
 と近くにいた下男の松吉さんに向かって叫びました。松吉さんは寡黙な大男で、一番の特徴は右目が潰れていることでした。何でも下級武士の出身で、その右目は戊辰戦争の時に幕府軍の流れ弾に当たって潰したという噂でしたが、何しろ本人が何も語らないので、詳しいことはわかりませんでした。
「やめてください。そうしたら、お嬢様まで撃ってしまうことになりかねません」
 松吉さんは今までに一度も聞いたことの無い大きな声で旦那様を制しました。勝手な憶測に過ぎませぬが、片目を失った時のことを思い出していたのかもしれません。
「五月蝿い。主人の言うことが聴けないというのか。」
 旦那様は松吉さんを怒鳴り付けました。月明かりの下でも顳かみと白目の血管が浮き出ていることが分かる旦那様は、今お嬢様と抱き合っている若者よりも、魔物に近いような形相をなさっておりました。
 松吉さんは、「はい」といつもの低い声でうなずくと、踵を返しました。
 まもなく、松吉さんが猟銃を持って参りました。旦那様は猟銃を奪い取るとすぐに構えました。けれども足も手も震えていて、あのような様では若者ではなく、お嬢様ごと撃ってしまうことになりかねません。
 わたくしは、すぐにでも飛びついて止めに入りたかったのですが、わたくしたちは所詮、使用人の身。しかも取り乱す旦那様を押さえられるものは誰もいませんでした。
 震える指先が、引き金を引いた時、わたくしは思わず目を被いました。
 銃声が響き渡って、花瓶の割れる音を聞きました。わたくしは視界に入るものがお嬢様の死体で無いことを祈りながら顔をあげました。
 銃声が響く前と変わっているのは、割れた花瓶だけでございました。それどころか何も無かったように二人は腰を振り続けています。お嬢様は何が起こっているのかまったく気付かない様子で、恍惚に押しながされた顔のまま、荒い息を上げておりました。
 二人の変わらぬ痴態は、旦那様をあざ笑っているかのようでございました。それにますます顔を紅潮させた旦那様は二発目を構えました。すると若者は動きを止め、ゆっくりとこちらを向きました。
 刹那、飴細工のように、猟銃の銃身がぐにゃりと曲がってしまったのです。
「ヒー」とまるで、椅子の足が床に擦れたときに出る音のような上ずった声を上げながら、旦那様は倒れ込みました。松の枝のように曲がった猟銃が廊下に投げ出され、大きな音を立てました。
 旦那様は屈辱と怒りが頂点に達したのでしょう。「畜生」と叫ぶと生身で若者に挑もうとしたのか、飛び起きて、部屋の中に入って行こうとなさいました。
「お父様。お止め下さい」
 旦那様を背後から抱きとめる人物がいました。旦那様のご次男でいらっしゃる光輝様でした。騒ぎに気付いて、今しがたやってきたのでしょう。いつもは目白の本邸にいらっしゃるのですが、今晩は鎌倉にいらっしゃっておいででした。
 御自分の妹君のあられもない姿に動揺をかくせないのでしょう。旦那様に良く似た細面でありながら、無き奥様ゆずりの丸い大きな目は、空を泳いでいて、子鹿のようでした。しかしながら、光輝様の方が旦那様よりも遥かに落ち着いているようにお見受けしました。
「お父様、相手はこの世のものではありません。この世の者でないものに、この世の力は通用しません」
 腕の中でもがき続ける旦那様を制しながら、光輝様が言いました。
「これを一番最初に見つけたのは誰だ」
「はい、わたくしでございます」
 わたくしは思いのほかしっかりした声が出せたことに、少し驚きました。大分落ち着いてきたのかもしれません。
「お葉か。今から八幡宮へ行って、誰か神主を呼んで来てくれないか。自分が見たことを説明できるね」
「はい」
「こんな夜中に女を一人で行かせるわけにはいかないな。松吉、お前も一緒に行くんだ」

    ◇◇

 松吉さんは女のわたくしの足のことなんか少しも気にせずに、少し前屈みになったまま、ズンズンと前を歩いていきます。わたくしは松吉さんの土塀のような大きな背中を見失わないようにするには、小走りにならざるを得ませんでした。
「松吉さん、わたくし夢でも見てるような気がするんですの。きっとこれは悪い夢なんじゃないか、ってそう思いますの」
 松吉さんは答えませんでした。玉砂利の擦れる音だけが聞こえました。
 そう、わたくしはこれが現の出来事だとは思えませんでした。わたくしは厠になど起きてはいなく、きっと全ては夢の中の出来事なのだ、そんな気がしてはなりませんでした。
 お嬢様は美しく、旦那様やお兄様の言い付けを良く守るお人でございます。そのお嬢様が魔物とまぐわっているなんて、悪い夢に違い無いように思えるのです。
 もしかしたら、わたくしの底に、そんな清らかなお嬢様を汚してしまいたいという、汚くて醜い心があって、それがこんなおぞましい夢になって吹き出しているのかもしれない。
 それはそれで、とても嫌なことではありますが、これが現であることに比べたら遥かにましです。
 しばらくたって、松吉さんは思い出したように、呟きました。
「夢でも現でも、人の心は移ろっちまうんだ」

「こっ、これは」
 松吉さんとわたくしが連れて来た二人の神主様は、そう言った後、言葉を失いました。
 戻ってきても、相変わらず窓辺のカアテンは水の中で揺れるように空を泳ぎ、その近くでは琵琶が美しく、哀しい旋律を奏でておりました。
 そして、お嬢様はより絶頂に近くなっているのか、身体を震わし小さなお声まで上げていました。
 旦那様のお姿が見えないので、尋ねると、あの後気を失われてしまい、使用人達がベッドまで運んだとのことでした。
「これは、恐らく今夜が最初では無いであろう」
 短い髪の壮年の神主様が呟きました。お嬢様が十日ほど前から食欲がなくなっていたことを思い出しました。昼間のお嬢様は、夜のことを覚えておいでだったのか、わたくしの知ることではありません。例えはっきりと覚えていなくても、逢瀬と時に感じた胸の高鳴りは、夢の続きのようにお嬢様を包み続けていたのだと思います。
 けれどもそれは、生きている人間が普通に抱く恋心ではなく、魔物に操られたものにすぎないのだと思うとお嬢様が不憫でなりませんでした。
「今すぐにということは無いだろうが、近いうちに魔物の子を孕んでしまうこともあるやもしれぬし、睦ごとの絶頂と共に、魂を奪われてしまうこともありうるな」
 そう言うと、もう一人の寝癖の残った若い神主様と目配せをしました。
 二人は大麻(おおぬさ)を振るうと、静かに祝詞を唱えだしました。
 けれども、若者の腰の動きは止まることはありませんでした。それどころかますます激しさを増しています。
 さらに、地震のように床が揺れている訳ではないのに、お嬢様の部屋の箪笥や、廊下の扉や窓などがカタカタと音を上げて、震えはじめました。その音の中には鈴を鳴らしたような高い音も混じっております。天井ではシャンデリアが揺れながら音を立てていました。
その震えは次第に大きくなり、箪笥が倒れたと思うと、シャンデリアが落ちて来ました。
 わたくしは耳を押さえて床にしゃがみ込みました。シャンデリアの硝子細工が割れる音に続いて、使用人たちの悲鳴が聞こえます。続いて、違う方向から硝子の割れる音がしました。廊下の窓に嵌った硝子が割れたようです。
 顔をあげると、床の上に無惨に投げ出されたシャンデリアは、まだ床の上でチリチリと音を上げて震えていますし、お部屋や廊下の家具が倒れ、絵や置き物が、次々と床の上に投げ出されていきます。
「怪我人はいないか」
 誰かの叫ぶ声が聞こえました。幸いわたくしはどこにも怪我がありませんでしたが、背後で「大丈夫か」という声が聞こえたので、誰かが怪我をしたのかもしれません。
 わたくしが、振り向いてそれを確認できなかったのは、若い神主様の持つ大麻が煙を上げはじめたかと思うとみるみるうちに燃え上がってしまい、そこから目を離せなくなってしまったからです。
 若い神主様は驚いて、大麻を床に投げ出しました。わたくしは、お屋敷に燃え移ってしまう、と思ったのですが、不思議と大麻の紙の部分だけが炎え上がり、他に移ることはありませんでした。
 さらに、壮年の神主様の大麻からも煙が上がりました。同様にみるみるうちに炎につつまれていきます。こちらの神主さんは大麻を手離すことはなかったので、神主様の手には木の棒だけが残りました。
 妖の力というのは不思議なもので、棒の方には焦げ目一つありませんでした。
 若者は神主様達を見据えました。先程のような冷たい眼差しではなく、怒りが籠っているような強い眼差しでした。
「還俗坊主が神主の真似事か」
 若者が初めて口を聞きました。幼さの残る声でしたが、なぜか聞くものを震え上がらせる声でした。
 わたくしは、若者の発した言葉の意味がわかりませんでした。けれども、若い神主様の方が何かを悟ったのか、合掌し、浅く一礼しました。そして、この神主さんの口から祝詞を唱える時よりも、低い声が零れました。
 「世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名為観世音」
 お経でした。聞いたことのある一節だと思い、その経の名前は観音経だということを思い出しました。
 壮年の神主様の方も、合せて観音経を唱え出しました。二人の声かさなり合い高まってゆきます。窓辺で鳴り響く琵琶の音とも重なりました。寂かな音が空気を包み込みます。
 堕ちたシャンデリアや、倒れた家具が音をたてるのをぴたりとやめていました。
 若者も腰を動かすのをやめました。代わりにお嬢様を抱き起こし、背を抱きながら、お嬢様の肩の上に顎を乗せて、こちらを見ています。
 お嬢様の顔からも先程の恍惚が消え、観世音菩薩か、弁財天のような穏やかな笑みで若者の方を見つめていました。
 二人の神主さんは目配せをした後、若い神主様の方だけが経を読むのを止めました。
 そして、若者に向かって話し掛けました。
「そこの者、名のある武士とお見受けするが、名を何と申すのか、私に教えてくれないか。ああ、別に素性を知られたくないのなら、姓はよい、名だけでよいのだ」
 すると、若者は落ち着いた声でゆっくりと答えました。
「あつとき、と申す」
「あつとき殿か、有難う」
 若い神主様は振り返り、光輝さまに問いかけました。
「このお屋敷に、先頃、当宮が仏教に関わる建物を解体撤去したときに引き受けたものが何かありませぬか。特に大したものではなくても」
「ああ、父上が撤去に関わっていたと、申しておりました。確か他の寺に預けるまでもないようなものを数点預かったと聞いていますが、何ぶん私は普段鎌倉に居ないものですから」
「それでしたら、わたくしが存じ上げておりますわ。納屋に無造作に置いてあるのを何度か見ましたもの」
 わたくしのようなものが、話に割り込むのは僭越だと思いながら、そう申し上げました。
 何でも神道を国教にするとかいう、お国の政策とやらで、お寺と神社を完全に分離しなくてはいけなくなったそうでございます。徳川の御代まで鎌倉の八幡様は、仏様と神様が一緒に祀られていて、お社もあれば鐘楼もあるといった様相でございました。けれども、お国が新しくなって、それではいけないということになったので、八幡様の仏教に関係する施設はこの夏の初めに全て取り除かれたのでございます。
 仏像などの、大事なものは全て所縁のお寺に預けられたとのことですが、中には預けるまでもないものの捨てる訳にもいかないようなものがあって、そのうちの何点かが、どういうご縁でかは知りませんが、お屋敷に置いてありました。
「是非、見せて頂きたいのですが」
 わたくしと光輝様の間を見ながら神主様が言いました。
「お葉、案内してあげなさい」

 ランプに照らされた、神主さんとわたくしの影が、長く長く廊下に投げ出されています。それは足だけ長く、腰から上は遠くの壁にわたくし達とほぼ同じ大きさで映し出されておりました。足長という妖怪を思い出させました。
「あの、わたくしのような、下女に過ぎない者が尋ねるのはとても失礼なことかもしれないのですが、なぜ、お屋敷においてある、そちらの八幡様ゆかりの物が、あの若者に関係あるとお思いになられたのですか」
 神主様は失礼でも何でもありません、と言うように、一度かぶりをふってから、答えました。
「先程、あの若者は、我々のことを還俗坊主と言ったでしょう」
「ええ。そのように言っていたようですわね」
「我々は二人とも、ほんの二年前までは僧侶だったのですよ。数カ月前までそうだったように、元々八幡宮は仏教に関わる諸堂の方が多かったのですが、同時に神主よりも僧侶の方が多かったんです。けれども、国が新しくなると、我々は建物よりも先んじて還俗して、神官になってしまった。確かに神奈川県庁から、そうするようにとの通達があったのは確かなんです。けれども、我々は仕方なく還俗したのではなかった。むしろ率先して、僧職を捨ててしまった。その頃から鎌倉にいたのなら、知っているかもしれませんが」
「いえ、二年前と言いますと、わたくしはまだ目白の本邸に仕えていて、こちらには」
「そうですか。当時、我々はあまりの変わり身の早さにずいぶん揶揄されましたよ。今思えば、我々は本当に仏法に帰依して、仏の道を貫いていたのでは無かったのです。我々が僧職に求めていたのは、地位に過ぎなかったのですね。だからこそ、国が新しくなって、これからは神官の方が有利だと知ると、我先にと還俗してしまった。神官の方が酒も女も生臭を食べることにも、言い訳がいりませんしね。我々は僧侶にあった時も、生臭坊主に過ぎなかったんです」
 わたくしは、何と答えていいものか解らなく、ただうつむきがちにランプの炎を見つめるだけでございました。
「申し訳ありません。こんなこと言っても、返事に困るだけですよね。話を戻すと、あの時の若者の言葉には、我先にと僧職を捨ててしまった、我々に対する怒りが籠っていたと思うのです。それに、我々のようなにわか神主が唱える祝詞は少しも効かなかった。むしろ、若者の怒りを増長させるだけだった」
「だから、祝詞を止めて、観音経を唱えたのでございますね」
「そうです。そうしたら、案の定若者の怒りはやわらいだ。当宮の仏教に関わる何かによって供養されていたものが、我々の裏切りのような還俗と、諸堂の解体によって、行き場を無くして漂い出てきたのが、彼なのではないかと私は考えたんです」
 そう言うと、神主様は唇を噛み締め、下を向きました。
「土間ではないんですね」と感心する神主様を横目に見ながら、わたくしは台所に入り、一応隠し場所になっている、奥の棚から納屋の鍵を取りました。
納屋は外にあるため、勝手口からわたくし達は裏庭に出ました。相変わらず月は煌々と輝いておりました。納屋の脇には、一本だけ月見草が生えていて、月明かりの下では月見草が緑色に見えることを知りました。
 わたくしがランプを持ったまま、鍵を開け、立て付けの悪くなった戸を引きましたが、三寸も開かないうちに固まってしまいました。後ろから神主さんが、「私がやります」と声をかけて下さいましたので、お任せするとすぐに開きました。
 「ありがとうございます」とわたくしが、声をかけると、神主様と目が合いました。神主様の顔をまじまじと拝見するのはこの時が始めてで、神主様の顔は、とても神様と相対しているとは思えない、普通の若者と同じ目の色をしておりました。丸く、濁りの無い目はどこか犬を思わせました。
 わたくしと神主様の間に少し、気まずさが流れました。神主様の「どちらに置いてあるのですか」という声が大きかったのは、気まずさを打ち消すためだったのかもしれません。
 「あちらでございます」。古びた屏風やら瓦やら、そのようなものが納屋の隅に埃を被ったまま、無造作に置かれておりました。
 神主様は着物の袖をまくると、それらを一つ一つ取り出して、わたくしの掲げたランプの下でじっくりと観察していきます。その中から、古びた板を取り出したとき、神主様は「あっ」と声を上げられました。
 神主様はそっとランプにその板を近付けました。
「読み書きはできますか」神主様はわたくしに聞きました
「はい。少しだけなら」
 その板は縦一尺、横一尺二寸ほどのあまり大きくない板でした。
「絵馬でございましょうか」
「そのようですね。大絵馬と言って、ある程度お金のある人が納める絵馬で、庶民が願掛けに使う小絵馬とはまた違うものです。小絵馬は絵馬場が一杯になれば、燃やされてしまうものですが、大絵馬は美術的な価値も高く、大概お堂の中に飾りつづけられるものです。いずれにしろ、願掛けという意味では同じなのですが。これは、大絵馬の中では、あまり大きく無い部類に入ると思います」
 神主様が、絵馬をランプに近付けました。古くてところどころかすれていますが、弁天様の絵が描いてありました。弁天様は裸で、琵琶を抱えていました。丸みを帯びた柔らかな体と、ぽってりと色香を含みながらも上品な唇、切れ長でありながらも優しさをたたえた目元は、どこかお嬢様に似ていました。
 さらに絵馬の縁をなぞるようにランプを動かすと、端に奉納者の名前らしきものが入っておりました。
「金沢…次郎、敦時…。あの若者の名前でございますね」
 わたくしの語気は上がっておりました。神主様が口を開きました。
「金沢氏は北条一族から派生した一族で、鎌倉の東北、朝比奈峠を超えたあたりに領地を持っていたんです」
「左様でございますか。今でも、あの辺りを金沢と呼びますものね」
「文武両道で知られた一族で、一番最初に「金沢」を名乗った金沢実時は、金沢文庫の創始者で知られる人です。私は浅学ゆえ、この金沢敦時なる人物を知りませんでしたが、金沢を名乗り、さらに次郎、つまり次男であるということは、かなり良い生まれのようですね。」
 名前の脇には奉納した日付けがありました。
「元弘二年、九月十五日……」
 わたくしが読み上げると、神主様が答えました。
「鎌倉幕府滅亡の前の年ですね。憶測にすぎませんが、学問や芸術にも力を注ぐ家でしたし、弁財天は福の神としてだけでなく、音楽の神としても信仰されてきましたから、琵琶の上達を祈願してこの絵馬を奉納したのかもしれませんね」
 黄昏の中、お嬢様の部屋で聞いた琵琶もあの部屋で勝手に演奏されていた琵琶も、もともとはあの若者が弾いていたものなのでしょう。
「ところが、翌年、幕府は滅亡している。一族の多くは東勝寺で集団自決しているし、もしその中に入っていなかったとしても、建武新政から室町幕府誕生の歴史の流れの中で、討ち死にしてしまった可能性が高いですね」
「その魂が、この絵馬に宿ったと神主様は御考えになるのですか」
「多分、戦など彼の望むことでは無かったのでしょう。琵琶をつま弾き、美しい女神と共に暮らすことを夢見たのだと思います。おそらくこの絵馬は、当宮の源平池に浮かぶ島にあった弁天堂にあったものでしょう。弁財天は、正確には仏ではなく、仏教に由来する神の一つなので、徳川の時代まで仏として寺で敬われもし、神として神社で敬われてもきました。けれども、仏教に由来するこの神は神仏分離の流れの中で、仏として切り捨てられざるを得なかった。このお堂も例外でなく先日取り壊されてしまいました。この堂には、美しい弁天像がありました。この絵馬に描いてある弁天像と同じものです。この像は今は所縁の寺に預けられることになったので、お堂と一緒に取り壊される運命は避けられましたが」
「お堂が壊され、弁天様と引き離されることによって、魂が漂い出てきてしまったと言うわけでございますわね」
「このお屋敷のお嬢様は、この弁天様に良く似て美しい。故に若者はお嬢様を見初めたのでしょう。けれども香の薫る仏の側で静かな時間を過ごしていた時とは違い、棲み家を失って怒りと孤独を抱えていた彼がとった行動は獣じみた荒っぽいものだった。ということなのでしょう」
 わたくしと神主様の間に沈黙が流れました。我々が先へ進んでいく中で、見落としてしまったもの、それが彼だったのでしょう。それを思うと不憫でした。けれども、わたくしの胸中は複雑でした。寂しかったにしても、嫁入り前の美しいお嬢様のお体を遊女のように弄んだことに対して、憎しみを感じているのもまた確かでした。
 神主様が口を開きました。
「お葉さんと申しましたね、この絵馬を包めるぐらいの大きさの紙と、あと硯箱を取ってきてくれませんか。今宵は月夜なので、ランプがなくても私は一人で戻れます」
 神主様がわたくしの名前を呼んだことに驚き、同時にそれはとても面映かったのでした。

  ◇◇


 わたくしが硯箱と紙を持って戻ると、二人の神主様は先程と同じ様に経を読んでいました。お嬢様は先刻と同じように敦時様とかいう若者の胸に背を預け、ゆったりとした表情でこちらを見ていました。
 先刻と違うのは、お気を戻された旦那様が、廊下の隅で終始爪を噛みながら、落ち着かない様子で、二人と神主様の背中を見つめていたことでございました。旦那様の隣では、腕組みした松吉さんが、仁王様のような偉容で立っていました。
 わたくしが戻って来たことに気付いた若い神主様は、経をもう一人の壮年の神主様に任せると、わたくしから、それらを受け取るよりも先に、部屋の隅に転がっていた、鏡台の台の部分を起こしにいきました。そして、わたくしに礼を言ってそれらを受け取ると、台の上に紙を広げ、筆で何かを書きました。梵字のようでございました。弁財天を表す梵字なのでしょう。
 書き終えると、絵馬を掲げながら、敦時さまに向かって話し掛けました。わたくしと話す時よりも少し芝居がかった口調でございました。
「そなたは、この絵馬を本宮の弁天堂に奉納した金沢敦時殿でございますな。お名前から察するに、鎌倉時代の末に、新田の討幕軍と戦い、無念の死を遂げたのでありましょう」
 若者が口を開きました。幼さの残る声は、冷たく、悲しい色を帯びていました。
「いかにも。然れども、拙者が死したのは、鎌倉ではない。遠く伊勢の諸領で、足利から北条の残党狩りの命を受けた吉見の軍に討たれた。渾沌の世情の中で我が墓さえ作られず、我が魂は百里を飛び、故郷の隣、鎌倉八幡宮の弁天堂に、生ける時に奉納した絵馬に宿ったのだ」
「そうだったか。そして、五百余年の間、弁天堂で美しい弁財天と共に、静かな時間を過ごして来たが、我々の浅はかな神仏分離の行動のせいで、堂は取り壊され、絵馬はこちらの屋敷に無造作に放置され、行き場を失ったという訳であるな」
「いかにも」
「それもこれも、我々の浅はかで浮ついた、行動のせいだ。申し訳なかった」
 若い神主様は、深々と頭を垂れました。経を読んでいた壮年の神主様も、いったん経を止め、それに倣いました。けれども、敦時さまは何も言いません。
 若い神主様は、頭を上げ、小さく咳払いをしてから続けました。
「そなたの苦しみは分かるが、そちらのお嬢様は、未来ある生ける身。どうかもう、夜な夜な通うのを止めてはいただけないか。そなたの魂の宿ったこの絵馬は、弁財天の梵字の書かれたこの紙に包んで、明日にでも、弁財天像の預けられた寺に運ぼう。そして、また像の側に飾ってもらおう。それで、許してもらえるか」
 敦時様は、伏し目がちにうなずきました。
「オン ソラソバ テイエイ ソワカ オン ソラソバ テイエイ ソワカ」
 若い神主様は、くり返し真言を唱えました。観音経を読んでいた壮年の神主様もそれに合わせます。御真言は、弁財天のものなのでしょう。
 若い神主様は、真言を唱えながら、先程梵字を書いた紙を手に取りました。
 その時でございました。敦時様の腕の中から、お嬢様が飛び出しました。日頃の大人しいお嬢様からは考えられないような速度で、神主様に走りよると、梵字の書かれた紙を奪いました。
 奪う時に、紙は二つに割けてしまいましたが、さらに御自身のお手元に残った方を、びりびりと細かく破かれてしまいました。
 お嬢様の声が部屋中に響き渡りました。
「敦時様、弁財天とは五百余年というのなら、わたくしとは、千年共に過ごさせてください。わたくしは、あなた様のお側を決して離れませぬ」
 そう言い終わるのと同時に、松吉さんの「やめろ」という叫び声が聞こえました。松吉さんがお嬢様に向けて走りよります。
 その時、お嬢様の手の中で何かが、月明かりを浴びて光りました。松吉さんの手がお嬢様に伸びましたが、間に合いません。お嬢様は御自身の胸にそれを降り降ろしました。
 思わず、わたくしは悲鳴を上げました。
 お嬢様は硝子の破片を胸に突き刺しておりました。がくりと膝を落とされました。胸からは夥しい血液が吹き出し、側にいる松吉さんの頬に、紅い斑点を作らせていました。
「おい、一体なんてことするんだ」
 松吉さんが、お嬢様を抱きとめようとなさいました。しかし、お嬢様は頭を降り、血のべったりとついた掌で松吉さんの頭に触れました。すると、松吉さんの大きな体が、ごろりと床に投げ出されました。
「死んではいません。眠っているだけですわ」
 苦痛に顔を歪めながら、お嬢様がそう言うと、背後から敦時様がお嬢様を抱きとめました。そして苦痛と切なさの混じった表情で、敦時様を見つめると、お二人は接吻なさいました。幾度も幾度も狂ったように二人の唇は重なり合い、その中では舌が、溶けた鉄のような熱を帯びながら絡まりあっているのでございましょう。
 ぴたりと合わさった二人の胸の間から、紅いものが絶えず溢れだしておりました。敦時様の手が血に塗れる乳房を、熟し切った柿の実を握りつぶすように、乱暴に揉みしだいております。
 お嬢様が血に塗れた足を開かれました。そして、寝台の上ではなく、床の上で二人はまた重なり合いました。
 わたくしは、ただ呆然とその光景を眺めることしか出来ませんでした。
 その間中、光輝様が、なんとか二人を引き離そうとしていましたが、まるで結界が張られているように、お嬢様たちの側には近寄れなかったこと。経も祝詞も最早効かなかったこと。この結界は敦時さまではなく、お嬢様のお力なのではないかと、神主様がおっしゃっていたこと。
 わたくしは、全て薄ぼんやりとしか覚えておりません。わたくしはこの世の果てのような光景の前で、立ちすくむことしかできませんでした。
 お嬢様には苦痛と悦楽が一遍に押し寄せているのでしょう。大きな苦痛の表情と大きな快楽の表情というのは非常に近しいところにあるらしく、その二つの表情の区別をつけられませんでした。
 その光景を見ながら、わたくしは地獄の釜の前にいる死者はこのような気持ちなのだろうと思いました。地獄の炎の中で、焼かれたり煮られたりする、時に足だったり、腕だったり、横顔だったりするものを眺める死者達は、まもなく自分もその中に加わることに、大きな恐怖を覚えるのでございましょう。
 わたくしも、その光景を眺めているうちに、わたくしを、わたくしであらしめている鎖のようなものが外れ、わたくしの奥底に流れるなにか紅黒いものの中に、埋没してしまいそうになるのでございました。
 嗚呼、恋とは、常にこのような地獄を孕むものなのでしょうか。
 八幡宮に向かう道すがら、松吉さんが言った「夢でも現でも、人の心は移ろっちまうんだ」という言葉が、頭を離れませんでした。現に対してだろうが、夢に対してだろうが、恋という心の動きは等しい。その結果が例えこのような地獄であったとしても。
 お嬢様の体が、雷に打たれたように大きくしなりました。
 すると、敦時様の姿が、霧のように消えてなくなりました。
 後に残ったのは、床の上に転がるお嬢様の屍だけでございました。
 お屋敷の中を、旦那様の泣叫ぶ声が満たしました。けれども、わたくしは、それでも立ちすくんだままでございました。

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