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べんてんーあとがき

あとがき、というか敦時さんをめぐるいろいろ。

 かなり後味の悪い作品を読んで下さって誠に有難うございます。
 この作品なんですが、本当ならば、あと一月は早く脱稿できていたんじゃないかな。という感じだったんです。ひとえにそれもこれも、敦時さんのせいです!
 この話、もともとは、鳥ちゃん向け(エログロ、幻想美って、凄い決め付け(笑))な作品を、鎌倉とか八幡宮とか、そんなすと世界フィールドで書いてみようという、かるーい気持ちで書きはじめたものでした。真面目な話なんだけど、話に絵馬が絡んできたとこで、笑えお前ら!って感じでしたし、「鳥ちゃんところは、歴史サイトじゃないから、時代考証なんか、いいかげんで平気だろう」なんていう心構えでした。鳥ちゃんのサイトを閲覧する人で、明治時代や鎌倉時代末期の鎌倉にツッコミを入れられる人もあまりいないだろうし、っていうね。
 すいません、何でも専科をナメてました。反省します。
 敦時さんという、キャラは全く私のオリジナルのはず、でした。
 鎌倉時代、金沢(かねさわ)という姓の一族は実在しました。横浜で隣の横須賀市と接している南端の区を金沢(かなざわ(現在の読み方は異なります))区と呼びます。八景島シーパラダイスの当たりですね。八景島は近年できた人工島ですが、鎌倉時代、その対岸を治めていたのが、金沢氏というわけです。
 彼等は北条一族の傍流で、北条のかなり濃い血統の人々です。二代執権の孫にあたる、金沢実時という人物が最初に金沢姓を名乗りました。実時は、学問に秀で、称名寺というお寺の境内に金沢文庫という、わが国だけでなく、中国からも集めた様々な書物を集めた図書館のような施設を作ったことで知られる人物です。
 実時は、2001年、大河ドラマ「北条時宗」でピーターが演じていたといえば、「あーあー、はいはい」ってなる人もいるでしょう。
 んで、キャラを作るに当たって、北条っていうんじゃ、あまりにもストレートすぎて、面白くないのでこちらの家の姓を拝借したという訳です。
 敦時の「敦」の字は夭折ということで、平家物語「敦盛の最後」からとって、「時」は北条氏の名前は「時政」だの「泰時」だの「時宗」だの、「時」がつく名前が多いので、北条氏っぽくするために、なんとなくつけたという感じでした。
 全くの創作ですよ、系図に無いって言っても小説なんだから。っていうのが、当初の姿勢だったのです。んで、鎌倉幕府の滅亡と共に、人知れず無念の最後をどっかで遂げた人ぐらいにしか、設定していませんでした。
 ところが、神主と主人公のお葉さんが、納屋に向いながら、神仏分離による鶴岡八幡宮の変化の説明を書いている辺りで、ふと、「ひょっとして、歴史上には同姓同名がいたりして」と思い立ち、検索してみたんです。
 すると、
 ずばり、全く同じ時代に、金沢敦時さんなる人物が実在していたのです!
 しかもです、調べてみると生没年月日は不明ですが、父親の金沢貞将(さだゆき)が、鎌倉時代の滅亡と共に、34才で死んでいることを考えると、鎌倉滅亡時に20才を超えていることはありえないでしょう。けれども敦時という名前が残っているということは、元服は済ましているということですから、滅亡時14才~18才ぐらいだったと考えるのが、自然でしょう。
 小説では「若者」としか描写してませんが、若すぎるぐらい若いぞ!敦時さん!!
 敦時さんは、鎌倉幕府滅亡の年、1333年2月に、金沢氏が領地として持っていた、伊勢に派遣されています。鎌倉幕府はその三ヶ月後に滅んでいます。現在は廃寺となっていますが、若宮大路から少し脇に入ったところにあった、東勝寺というところで、北条氏は集団自決しています。その中には、敦時さんの祖父、顕時さん、父、貞将軍さん、そして兄の忠時さんも入っていました。
 ただし、その時、敦時さんはもちろん伊勢にいたので、その中には入っていません。鎌倉幕府滅亡後、まもなく、日本各地で足利尊氏の命を受けた守護大名たちが、残党狩りを行っており、伊勢では吉見円忠なる人物が残党狩りのため、挙兵しています。勝敗は資料にありませんが、その後の歴史状況から鑑みて、おそらく、吉見に討たれて亡くなったものと見なしてよいでしょう。
 そう、同じ時代なだけでなく、年令も人生もほぼ設定と同じだったと見なせるというわけだったのです。
 ひい~。
 流石に無気味なものを感じて、一旦筆を起き、インターネットの情報だけでは不確かなので、文献を漁ってみることにしました。
 現在図書館兼、博物館として再興されている金沢文庫に行って、調べるも、あまりにもマイナーな人物らしく、調べがつきません。そこで、北条氏のファンサイト(そんなものもあるんだよね)で情報を募ったら、『北条氏系譜人名事典』(人物往来社)なる本(二万円もするらしい)に載っているとのことで、鎌倉の図書館に置いてあるとのことで、調べてみました。
 情報としては、ネットにあったものとほぼ同じです。情報の出所は『金沢文庫古文書』と、「花園天皇宸記」・「光明寺残篇」、『鎌倉遺文』の4つ。いずれも信頼のおけるソースです。
 『鎌倉遺文』はその図書館にもあったので、調べてみたら、ちゃんと『淳時(この資料では「敦時」ではなく「淳時」になっている)』の名前がありました。
 それでも恐ろしさは消えないので、敦時さんの他の家族が自害した、東勝寺跡に行って、お線香をあげて、金沢氏の菩提寺である、金沢文庫の隣の称名寺(っていうか、称名寺の敷地に金沢文庫があるのだけど)へお参りに行き、勇気を出して、称名寺のお坊さんに相談してみました。
shoumyouji.jpg●ちなみにここが称名寺。
 けれども、内容があまりに電波で、電波でないように話そうとしても、やっぱり電波なので、話しているうちに舞い上がってくるし、どうにも、お坊さんも困った顔をしていたので(ああ、やっぱり電波と思われたか)「あまり気になさらないで」ということを言われたには言われたので、ああそうですか、と、さっさとお寺を後にしてきました。
 爆死。
 ともかく、偶然でも必然でも、書いちゃったものをお蔵入りにするのははばかられるし、もし、必然だったとするならば「俺を書いてくれ」というメッセージだっただろうし、書かない方が祟られそうなので、書くことにしました。
 ええ、全裸で現れるドスケベ幽霊という設定でも、それは彼が望んだことなんだ!
 (って違う?)
 話の筋も当初から変わっていません。
 お祓いもお金がかかるので、今のところやっていません。別に悪いこと起きてないしね。悪いことが起きたら考えるつもりです。
 そんないわくつきな小説だったわけなんです。コレは。
 そんな訳で、読んで「調子悪いぞ」と思ったらすぐに連絡ください。お祓いにいきます。(をい)
 ともかく、ここで調べたことも小説に活かさせてもらおうと思って、吉見の軍に倒されたみたいな台詞をつけくわえてみました。
 あと、いくつか解説を。
 実はこの小説には、大嘘が含まれています。
 調べていくうちに分かったことなんですが、明治初期、鎌倉には華族は恐らく住んでいません。鎌倉が別荘地として、開拓されたのは横須賀線が開通した明治20年以降のことなんです。室町時代、関東管領がひきあげてからの鎌倉は、徐々に衰退し、江戸時代は単なる寒村に過ぎなくなっていました。寺社も寂れ、八幡宮なんかも荒れ放題だったと言います。
 なにしろ、明治時代の中ごろ、八幡宮の周囲には、競馬のコースがあったというのだから、驚きです。競馬だけでなく、競輪まで行われていたそうです。おいおい。
 明治時代以降、様々な文人が鎌倉を愛しましたが、そんなハイカルチャーなイメージは、明治初期の鎌倉にはまだありませんでした。
 それから、神主さんの名前ですね。実は当事の神主さんの名前というのは、ある程度ネットでも調べることが可能ですし、地元の図書館に行って、八幡宮の年表を見れば簡単に調べがつきます。
 けれども、名前以外、年令とか生い立ち、さらに性格となると難しくなってきます。ただ、明治時代はじめのことですから、子孫もいらっしゃるでしょうし、しっかり調べれば分かるのでしょうが、こんなネット小説ごときで、調べるほどのことでもないし、かといって、創作するのもやりにくい、という感じで結局名無しの神主さんのままでした。
 いずれ続編を書くことがあったら、やっぱり、シャーマン役の神主さんは不可欠なので、出したいと思っているのですが、この名前問題をクリアしないとなあ。
 あとはまあ、ツッコミどころは満載でしょうが、そのへんは許してちょうだい。
 そんな訳で、流鏑馬見に行った後に、東勝寺跡に付き合ってくれた友人に感謝。称名寺のお坊さんに感謝。そして、気長に待ってくれた、鳥ちゃんに感謝。なのでした。