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夏の誘い

 蝉の音が、水気をまとった熱気を破るように響き、軒に吊るした鋳型の風鈴が、かすかな風に短冊を揺らしている。鳴りそうで鳴らない風鈴に暑さへの苛立ちを目線で投げかけながら、縁側に大の字に転がった浅生は着崩した浴衣の衿を整えることもせず、手元の団扇で顔を仰いだ。顔に熱風が当たるが、無風よりは幾分ましである。帯に裾を差し込んでまくしあげ、素足を晒して地面に置いた水のはってある盥の中につっこんでいた。
 水は温い。中には金魚が十匹ほどゆったりと泳いでいる。水の温さに我慢できず、身を起して盥の傍らにあったバケツの中から氷をすくい放り込む。逃げるように金魚が水中を動いた。再び寝転がるのも億劫だったので、そのまま座り込んだ。バケツの中は氷だけではなく、ラムネが二本と冷やし飴の瓶が一本さしてあった。冷やし飴は手製で作ったもので、空き瓶につめて冷やしている途中である。盥を足でさらうと金魚が狭い水の中を逃げ惑う。金魚につられて水草が緩やかにたゆたった。

 冷えていたラムネの一本を取りだし、ビー玉を落とす。溢れる中身を地面に零し、収まるのをまってから口をつけた。清爽な味が口の中ではじけ喉をうるおす。一気に飲み干したくなるのを抑えながら、炭酸のはじける感触と甘い味を堪能した。少々、ほっとして息をつく。物干し竿の支えを蔓の支柱にして、朝顔が天に向かって伸びていた。中ほどで大きな紫色の蕾をたたえている。咲くのなら、明日の早朝ぐらいだろう。なんとなく楽しみにしながら、乱れた髪際から垂れ流れた汗を縁側に丸めておいてあった手拭いで拭った。

 ふと、すこし陰っていただけの目の前が一段と暗くなった。あげた腕を下げた先には、見慣れた顔の女が立っていた。いつもの頭からつま先まで黒いといった風体ではないので、一瞬だれかとおもったぐらい色のある身なりをしていた。芥子色にぼかし染めした綿絽の浴衣にえび色の半巾帯を結んでいる。柄がなくて寂しげな浴衣だが、紫のしている格好の中では明るい格好だった。
「汚ったない足、晒してなにしてんだい?」
「涼んでるんだ」
「金魚と一緒にかい? たくさんいるね」
 なにが面白いのか、紫は笑みを湛えて盥を眺めていた。その視線に戸惑うように金魚が一匹逃げる。とりあえず、浅生は足を盥から引き上げると、さっき汗を拭いた手拭いで滴る水滴を拭き取り、縁側に胡坐をかいた。足を引き上げたせいで水が揺らめき、さらに驚いて金魚が水中をまわる。
「近所の子どもが、おいていったんだよ。家じゃ飼えないんだと。お前はなにしにきたんだ」
 唐突にくるのはいつものことだったのだが、格好のせいで驚いた。どうせ、なにかするのに付き合えとか、そんなところなのだろう。はっきりいって、面倒くさい。そんな浅生の気持ちなど、これっぽっちの理解もないまま、紫は嬉々とした表情で、手に持っていた菊花模様の巾着袋から紙切れを取りだした。受け取って広げるとつたないイラストに丁寧に書かれた字体で、神社の名前が書いてある。自治体の手製チラシだ。絵柄に見覚えがあった。自分の家にも投函されていた覚えがある。居間を漁ればどこからかでてくるだろう。神社の夏祭りを知らせるチラシだった。
「ああ、うちにもきてたな、その金魚もこれのだろう」
 行事の成り立ちは、浅生はあまり詳しくない。生きた時間は長くても、密着した地域づきあいはあまりしてないからだ。かすかな記憶にあるのは昔の祭りで、それも、霞み程度の薄いものでしかない。なにか訴えるような金魚の水音でそれは消し去ってしまった。
「一緒にいこ」
「いかない」
 案の定の誘いの言葉を遮るように浅生は言葉をかぶせた。みるからにムッとした顔で、紫が睨みつけてくるそれを目の端において、ぎらつく空気の庭先を眺めながら、首筋に垂れた汗を手で拭う。
「なんでだよ。いいじゃないか、夜店ぐらい」
 子どものようにむくれる彼女は落ち着いた大人にはみえない。せっかくの格好が台無しのような気もするが、彼女の歳について考えても、人の範疇どころか、浅生の範疇にすらはまらないので、やめておいた。心中がばれてもおかしくない相手だ。ばれたら後が怖い。
「この暑いのに、外なんかで歩きたくない」
「日は落ちるよ。そしたら涼しいだろう?」
 いってることは至極当然なのだが、この夏の真っ盛りに、日が落ちたところで蒸した空気がどうにかなるわけでもない。絶えず汗がでるのをうっとうしく感じている浅生とは違い紫のほうは、日当たりのいいところに立っているにもかかわらず、汗ひとつかいていない。眉ひとつ歪ませないところをみると、本当に暑さなど感じてないかのようにもおもえる。
「……日が落ちたところで、暑さがどうとなるわけでもないだろう。だいたい、夏はあまり人集りに行きたくないんだ」
「騒がしいからね。いろいろと」
 わかってるんじゃないかと、浅生は嘆息した。わざわざ含む言い方なのは、面白がっているからだ。
 夏はざわつく、暑さや休みも重なって人も騒ぐ。それと同じように、この時期は人でないものだって騒ぐのだ。
人と違って休むことがない。今の蝉のように絶え間なくどこかで騒いでいる。人でないのは浅生も同じであるが、その中でも奇異な部類であるらしい。人や動物に寄生や依存をするようなものたちが油断しているとすぐに寄ってくる。それは非情にうっとうしいのだ。目の前の紫も含めて。

 飲みかけていたラムネを煽った。喉の奥で炭酸がはじけて咽せそうになる。紫も盥の脇にあった氷と飲み物の入ったバケツに気づいたらしい。了解も得ずに流れるような仕草で、一つしかない冷やし飴の瓶を取った。あっさり蓋を開けて飲む。
「すっとするねぇ」
 喉を鳴らすネコのようなどこか、気持ちよさげな声で感想を漏らすのを、浅生はただ悔しげにみることしかできなかった。好物だったのだ。もったいぶって最後まで残しておいたのをひっそりと悔いる。
「騒がしいのもイイじゃないか、たまの祭りだ。少しぐらい。もう、忘れ去られて、こういうときぐらいしか、騒げないのもいるんだからさ」
「……ああ」
 小さく呟き、渡されたチラシをもう一度眺めた。時が進めば、さまざまなものが変わる。町並みや人の生き方、この世にあるすべてだ。なくなっていくもの、忘れられていくもの、そういうものは、ただ、消えていくだけである。
 夏の人でないものたちは、人々が騒いでいる間だけ、存在する。夏が終われば、消える。夏の間だけ、おもいいだされ、すぐに消える存在になっていった。だが、それは仕方のないことだ。
 変わらないものはない。それが人以外のなんであっても。
「……そうだな、行ってもかまわないが」
「やった」
「夜が涼しかったらな」
 喜ぶ紫を牽制するように言葉を重ね、ため息をついた。紫はすこしふくれたが、それもすぐに収めると、縁側の浅生のほうへ影をくぐって近寄った。手に持った冷やし飴の瓶から、水滴が滴っている。気になって、手拭いを差しだすと紫は無言でそれを受け取って水滴を拭いた。わざわざ水で薄めて作っておいたのに、とまた悔しさがこみ上げる。煮詰めた飴の方はもう終わってしまって、この冷やしたものが最後だったのだ。悔しさを押し隠しながら、飲みかけのラムネを飲み干す。中のビー玉が音を立てて空を知らせた。

「それにしたって、ずいぶんと金魚をもらったね。飼えるのかい?」
 足下の盥を口に添えた瓶越しに眺めるように紫が問うた。怖がっているのか金魚が数匹慌てるように音を立てる。盥の中には大小様々な金魚が戯れていた。黒いと赤いのが半々で、一匹だけ、白い色の入ったものもいる。
「まあな、人がきたらあげようとはおもっているんだが」
 持っている金魚鉢は家探ししてみつけたが小さなもので困っていたのだ。十も入れたらすぐに死んでしまうだろう。だから、わざわざ盥に水を張って放っているのだ。水草は入れてあるものの心許ない。
「もらっていいかい?」
 おもわずみつめてしまった。彼女の家の内装をおもいだす。おびただしい紙の散乱した床に、得体の知れないものが雑然としている。あの部屋に、金魚である。世話もあやしい。だが、彼女が興味を持つということは、多少なりともなにか算段があるのだろう。ともおもった。とにかく、近所の公園の堀に流すよりは、子どもからもらった面目も立つ。
「一、二匹は残しておいてくれ」
 その言葉を聞いて、紫が手に持っていた冷やし飴の瓶を置いた。もう半分なくなっている。そつのない仕草で過ごしているがおもっているより、暑さを感じているのかもしれない。彼女は盥の前に座り、紫色の双眸で水面を舐めるようにみると、浴衣の袖を盥の上にかぶせた。

 一呼吸おいて袖は引かれた。水の中には水草と黒と赤の金魚が一匹ずつしか残っていない。仕草に見入っていた浅生が顔を上げた先に変わらず浴衣を着込んだ紫がいる。浴衣をみせびらかすように身をよじる彼女の浴衣に数匹の金魚がたゆたっていた。袖口から裾に、衿に、と移動していく、水面を泳ぐままの姿でだ。くるりと子どものように紫が身体を回した。布を泳いでいた金魚たちはもう身動きを取ることはないようだった。
「柄が寂しかったんだ。どうだい?」
「……ああ、いいんじゃないか」
 呆気にとられたのを隠すように問われたままに返事を返した。妙に嬉しそうに身をよじる彼女の仕草に、金魚の柄が泳いでいるようにみえる。だが、あれは金魚ではなく、金魚の柄だ。盥の中に目を戻すが、幾度みても、二匹から増えることはない。心のどこかが抜け落ちたような落ち着かない気分になって、表情の定まらないまま、紫をみると、なにかいいたげな顔でこちらをみていた。
「水の中で終わりを迎えるより、ずっと愛でられていた方がいいだろう?」
 そうなのだろうか、漠然とした感情を抱えながら、紫の問いかけにはなにも応えず、日の当たる外をみた。ゆっくりとだが、日は落ちてきている。風がすこしでてきたのか、ふっと肌に冷たさを感じた。頭上で風鈴がひと鳴りし、蝉の音もまるで風鈴に驚いたかのように唐突に止む。

 熱気と強い日差しだけがものをいう一瞬の沈黙に、浅生はなぜかひどい寒さを感じて立ち上がった。捲し上げていた裾を下ろして衿をただす。そのまま庭に下り、庭に置きっぱなしの下駄を引っかけると、盥を持ち上げて縁側に追いやった。水が揺れて、金魚が驚いている。
「どうしたんだい?」
「……もう、行く」
「まだ日は高いよ?」
 小首をかしげている紫に意味の分からない苛立ちを感じながら、浅生は髪をかき混ぜた。無言のまま、庭先を横切っていく。後で紫が追いかけてくる気配を感じた。
「ま、いいやー。露店はもうでてるだろうし」
「……金魚すくいはやるなよ?」
 紫が微笑んだ。
「やらないよう、それよか、氷が喰いたいね」
 止んでいた蝉の声が、再びしだした。軒先から真っ向に日の当たる庭にでて、あまりの眩しさと熱気におもわず浅生の足はたじろいだ。その横を紫が楽しげに追い抜いていく。数歩先を歩いていく彼女の浴衣の背に、白の入った金魚が一匹いた。水音がそこから聞こえてきそうだった。