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雪中梅

 暖かい日が、早めに来たと思ったら、週が開けたとたんに、突然冷えた。
今日は雪がちらつくほどで、昼頃になると少しばかり積っていた。彦の兄は元より身体が弱かった。それなのに、早々と春が来たと喜んで暖かい日に薄着で過ごしていたものだから、冷えたとたんに酷い風邪をひいてしまった。
 彦は、縁側に新しく添え付けられたばかりの硝子戸の縁をなでながら廊下を歩いて、二間目の襖に背を向けて座り込んだ。素足を抱え込み、ゆったりと舞う白い雪をにらむように見つめていた。背にしている襖の向こう側に、彦の兄は寝かされている。彦は尻に体重を乗せて、襖で背を支えると抱えた足を持ち上げ、ゆりかごの様に一人ゆらゆら揺れていた。
 視線はずっと雪の降る庭先をにらんでいた。先早にきた暖かい日の所為で、いくつかの春の花が咲いてしまっている。青々とした葉の輪丁花が、ほのかに淡い色をさせた花を咲かせ、紅梅もちらりと白雪の中に赤い花を覗かせていた。部屋も外もしんとして静かである。彦は兄に声を掛けず、ずっと襖に背を預けていた。寝ているのだろう気を遣っているわけではない。
彦は兄の体調を壊した雪に怒っているのだった。
 彦の母親も兄のように身体が弱かった。風が吹けば倒れ、雪が続けば寝込むような性質だったらしい。彦の母親は彦を生んで、数日後亡くなった。ちょうど今日のような雪の日だった。彦は兄が同じように雪の日に死んでしまうのではないかと思うと心配でたまらず、雪をにらむのだった。
雪が小米雪から、牡丹雪にかわり、丈夫だけが取り柄の彦も素足ではきつくなってきた。素足を互いにこすりあわせるようにしてそれでも彦は縁側から、声も出さずに雪をにらんでいた。
「彦」
 襖の向こうから兄の声がして、彦は冷たく冷えた廊下に素足をついた。
襖を見つめると、もう一度、兄が声を出して、彦を呼んだ。
「彦」
 控えめに、音を立てないように彦が襖をほんのり開けると、布団に横になったまま、兄は目を覚ましていた。彦は急いで兄の部屋へ入ると、襖をぴっしりと隙間ないように締め切る。兄の部屋は硝子戸ごしの縁側よりも遙かに暖かだった。彦はそっと、兄の枕元まで寄ると、縁側の時のように足を抱えて座り込んだ。白いを通り越して、透明感すら感じさせる覇気のない肌、唇すら白い。まだ、若いというのに髪は白髪が混じっていた。夏に焼けたまま浅黒く色の落ちない彦とは正反対の肌色だ。兄は病弱な顔を綺麗に歪めてむっつりとしたままの彦にほほえんだ。
「何を見ていた?」
 彦は思案して、ゆっくりと、無愛想に閉めた口をゆるめて声を出した。声を出す為に組んだ足を押さえるようにしていた手を離し、畳に付いた。
「雪をみてました」
 彦の言葉を聴いて、兄は病弱な顔に浮かべた笑みを深め、彦は雪が好きか。とかすれた声で聞いてきた。兄の屈託の無い質問に、彦は声では答えず、ただゆっくりとうなずいた。兄が自然のものが大好きなのを彦はよく知っている。自分が雪は嫌いと言ったら、兄はさびしそうな顔をするだろう。彦はそんな兄の顔は見たくなかった。
「雪か、いいな」
 そういって、兄は彦の向こうにある襖を遠い目で眺めた。色の深い、黒色の瞳が揺らめく。兄の心を察した彦は思わず、声を上げた。
「にいさん。ダメです」
 きょとんとした。兄の顔を見て、彦はなぜか恥ずかしくなった。畳の目を見つめるようにとっさに下を向いた彦に、かすれた声のだけれど、屈託の無い笑い声が聞こえた。
「ああ、開けてくれと言うと思ったのか。彦は察しがいいな」
 兄はそういって、細く白い白樺の枝のような手で、彦の黒く固い髪を優しく掻き混ぜた。
くすぐったいような、恥ずかしいような感触に、彦は目をつぶった。そんな彦を見ながら兄が少し笑いを含む声で、彦に言った。
「開けてほしいな。雪が見たい」
 思わず彦は細い兄の手が乗ったままの頭を大きく振った。軽い兄の手が、畳にゆっくりと下りる。指先で、畳の目をなぞりながら、兄は彦に優しげな、そして彦よりももっと無邪気な瞳で、彦を見つめた。
「ダメですって、いったばかりです」
「いいじゃないか。雪は一番好きなんだ。ほんの少しでいいから」
「ダメです。似た様な事を言って、おととい薄着で居たから風邪を引いたじゃないですか」
 畳を見てつめていた顔を、無邪気な兄に向けて、彦は強く言った。強い口調に兄は驚いた顔をして、確かにそうだったかもしれないけれどと、尻蕾みな言葉をごそごそと布団の奥でつぶやいた。そのしぐさが、あまりにも子供っぽく、可哀想だったので、彦は思わず笑いそうになった。そこを何とかぐっと堪え、じっと兄を見つめていたが、兄は微笑みながら、彦を見つめてから、ゆっくりと彦の向こうにある襖に視線を解るようにずらした。
「彦」
 声がした。彦は襖を見つめ次に兄の方へ顔を向けた。兄は彦を崩すことのない微笑で見つめ返してきた。ほんの少しの間、二人は見つめあったまま黙った。雪の降る無音が部屋を満たした。
「彦」
 もう一度呼ばれて、彦は観念した。ただ、腹の底から押し出すように兄に向かって静かに忠告する。
「ほんの少しです。すぐに閉めますからね」
 その言葉を聴いて、純粋に兄は喜んだ。満面の笑みは、儚いながらも心の底からうれしさがこみ上げているのが解る。病弱な兄の根がとても純粋なのを彦は感じ、同時にどうして彼が病弱でなければいけないのか、悲しくなった。
 同情的な感情を押し殺すように、彦は入ってきた襖を静かにゆっくりと、引き開けた。全部ではなく、片側の兄の頭が寝ている側だけを開けてやった。庭先に降り注ぐ雪は、特大の牡丹雪で、丸みを帯びている丈の低い輪丁花などは、埋もれかかっていた。庭先に白に埋まっていないのは、まだ植えて間もない紅梅の木だけで、細くまだ幼い枝に濃紅の小さな花がぽつりぽつりと咲いている。
「ああ、綺麗だ。大分たくさん積っているね」
 兄の明るい声を聞きながら、彦は部屋の隅へ、兄の邪魔にならないように座り込んだ。その動作を見た兄が、彦へ声をかけてきた。
「彦、なんでそんなところにいるんだい?」
 彦が兄の方へ顔を向けると、兄は彦に向かって手招きをしてきた。だが、彦は動かず座ったままの兄にきつい口調で言った。
「ほんの少しですから、ここに居ます」
 動かないつもりで、彦は少々大きめの声で言った。兄は苦笑すると、ゆっくりと布団から身を起こそうとした。それを見て驚いたのは、彦だった。慌てて兄の傍へ近寄ると、細い折れそうな肩を掴んで布団の奥へ押し込む。
「起きちゃダメです!」
 天井を仰いだ兄は、細い肩を彦に抑えられたまま真剣な顔立ちの彦を見て声を上げて笑った。
「彦は、心配性だな。大丈夫だよ、少しぐらい」
 からりとした声で兄は、青い顔をしてあわてている彦に笑いかけた。彦は肩をつかんだ手を畳の上へ放るように置くと、畳にぺたりと座り込んだ。
「……起き上がってはだめかい?」
 伺うように兄は、声の抑揚を控えて、彦に声をかけた。むっつりとしかめ面に似た膨れた顔をする彦の顔を覗き込むようにして、微笑む。
「ダメです」
 頑なに兄の要望を否定する彦の声に、とうの兄は思案顔で天井を眺めた。天井を眺めながら時折、ちらりと盗み見るように、彦の様子を伺う。
「先日も、無理をして外へ出て、咳き込んだ挙句に倒れたじゃありませんか」
 消えるような、独り言のようにつぶやいた彦の言葉に兄は突然、抑揚の強い声を上げた。
「じゃあ、起きるのは諦めてこうしよう」
 そして、ぼんやりと畳の上にのっていた彦の腕を掴むと器用に布団へ引きこんだ。
仰天している彦の身体を、細く弱い体が包み込む。一日中布団に入っていたはずの兄の肌は恐ろしく冷たく、寝間着から覗く胸板には、酷く掻いた爪痕が残っていた。咳に咽たときに掻き毟ったのだろう、酷く深く赤黒い爪跡は、深々としていた。深い傷跡は幾重にも残っている。一回やそこらで残るような傷ではない。彦は悟った。
「あっ……」
 細い腕のどこかに潜んでいたのか、しっかりと抱きすくめられ、彦は逃げられなかった。兄は楽しげに、からかう様に彦を抱きしめ、薄い身体で覆う。
「ああ、彦は温かいなぁ。湯たんぽ代わりにちょうどいい」
 彦はもがくが、弱いと知っている兄に対して、力いっぱいの抵抗はできなかった。ただ、慌てて抱きすくめられるしかなかった。悲惨な胸の爪跡と、ほのかに兄からする病の匂いが、酷く彦の胸を締め付けた。抱きすくめられた腕の中を身体をひねって、酷いものから目を逸らし、背から抱かれるような格好になる。兄の腕の向こうから、雪に埋もれた白い庭先と、その中にほんのりと浮かぶ紅色の花を見た。
「ああ、なんて綺麗なんだろう。雪中梅とでもいうのかな。あれは、彦と一緒に去年植えたものだね」
 兄は彦の見ているものを察したらしい。白い顔を寄せ、彦と同じ視線になって覗きこむように彦の視線を追った。だが、彦にはそれが綺麗には見えなかった。
 まるで、誰かが一筋血を流したかのように見えたからだ。白に一点の赤が酷く悲惨なものに思えた。そしてなぜか後ろの兄の胸の傷から、血が滲むのが頭に浮かんで、彦は思わず泣いてしまった。
「彦?」
 うずくまるように彦は泣いた。心配そうな、兄の声が耳元で聞こえる。兄の体温は低かった。冷たく、彦の体温を奪うものの、さして温かくなるような気配もなかった。
だが、背からほのかに感じる胸の音が、かろうじてながらも兄が生きていると言う事を感じさせた。だが、その音がゆっくりで、今にもの止まってしまいそうなのが恐ろしかった。
「どうしたんだ。嫌だったかい? ちょっと調子に乗ってしまったかな……」
 兄の様子を伺う声に、手に顔を埋めたまま彦は首を振った。声を出したら、そのまま声を上げて泣いてしまいそうだった。
「そうだ、私の風邪が治ったら、梅を見に行こうか。きっと綺麗だよ」
 励ますつもりなのだろう、優しい声で、兄は彦の耳もとで言った。彦は頷いた。そして、治まりかけた涙を飲み込むようにして、吐息とともに言葉をはいた。
「桜も見たい」
「うん、桜も綺麗だね。見に行こう」
 頷きながら、優しく答える兄に、彦は畳み掛けるように言った。敬語ではなくもっともっと幼い子供のような声でだだをこねる。
「絶対。紫陽花も向日葵も、紅葉も見たい」
「うん、絶対だ。約束しよう」
 そういって、兄は彦の小指に自分の小指を絡めた。彦はその絡まれた小指に力を入れて、離さないようにぎゅっと手を握り締めた。
「ずっと、傍に居るから元気になって」
「うん、ありがとう」
 兄の指が、彦の指から離れ、代わりに小さくなっていた肩をぎゅっと抱かれた。今度は病の匂いも、悲惨な感情もこみ上げてこなかった。むしろ、梅の香りに似た甘くそれでいてさわやかな香りがして、体の力が抜けるほどの安堵が、彦を包んだ気がした。
「彦がずっと傍に居てくれるなら、すぐ、元気になれるね」
 兄のその強い声が、彦の耳元で響いた。不思議と彦は目をつぶり、兄の腕の中で泣き疲れて眠りについた。
静かな寝息を立てた彦を見て、兄は消えるようなやさしい笑みを浮かべ、彦の頭をやさしくゆっくりとなでた。そして、寂しげで悲しげな瞳を彦に投げかけ、寝入る彦の首筋に、うなだれるように顔を埋め、ちいさく唇を動かして小声でささやいた。
紅梅にほのかにかかっていた雪が、ぼそりと落ちて、鈍く重い音を立てた。小さなささやきは、雪の音で耳元でささやかれた彦にすら届くことはなかった。
 やがて、雪は小さくなり、雨になり、静かに音も立てずに止んだ。薄青の空が分厚い雪雲の切れ目から覗いて、暮れ行く日を白い地面と小さな紅梅に注いでいた。