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 長雨で庭先の草花は露の重みで撓んでる。そんな庭を私は煙草の煙越しから眺めていた。
「うっとうしいなぁ」
 うすら暈けた居間の中で小さく呟いた。だが、降り続ける雨音がその言葉の余韻すらかき消していく。湿気を含む不快さに寂しさが混じって気分がささくれた。腹立たしげに、私は煙草を一気に吸う。煙草は小さな火花を散らせ、煙に変わるとやがて、湿気を帯びて蒸す空気にとけるように消えていった。ここ数日雨のせいで、誰も訪ねてくることがない。することのない私は暇を持てあまし、日頃吸わない煙草を引き出しの奥から引っ張り出して時間を潰していた。
 梅雨には早いこの雨は、長く降り続けるごとに冷たかった空気を熱気に変えていった。庭先の紫陽花が時期を早めてつぼみをつけ、横で白い小手毬が弓なりに垂れている。植えっぱなしでろくに世話をしていない草花の隣で、放っておいてだいぶ経つ手ぬぐいが一枚、物干し竿の上で、寂しげに雨水を滴らせ泣いていた。
 ぼんやりとした中で、落ちそうになった煙草の灰を手元の灰皿に落とす。さっき一気に吸ったせいで予想以上に短くなった煙草を一瞥して考え、改めて口にくわえるのは諦めた。皿の上で火をねじ消す。
 濡れ縁に一羽の雀が舞い降りて、濡れた身体を震わせて水気を落とすのが見えた。だがひさしが短いので雨は凌げなかったらしい、滴った雨粒に驚いて、雀はすぐに雨の中を飛び立っていった。雀のその様子にふっと顔が緩む。

「やたらと蒸すね」
 唐突の声に驚いて、私は自分の傍らを憮然とした視線で睨んだ。だが、相手の方は素知らぬ顔である。
「音くらいさせて入ってこい」
 黒く長い髪をまとめることなく垂らし、酔うようなとろりとした紫の瞳を悪戯げに光らせて、女は部屋に馴染んでいた。まるで数時間前からいたような和み具合である。葬式帰りのような黒い洋装になぜか男物の扇で風を送って涼んでいる。閉めきった部屋の中で、扇いだところで冷たい風は吹かないだろうが。本人は気にしてないようであった。
「女の立ち振る舞いってのは静かなものだろ?」
「物音を立てないのは泥棒ぐらいだ」
 物言いに傷ついた素振りもなく、女はむしろ楽しげに声を立てて笑った。口元を扇で隠しているものの、その声は豪快で男らしい。
「何しに来た」
 この女に関わるとろくな事がない。だが、妙に上機嫌なのが気になってしまった。女は私の言葉に嬉しそうに反応すると、口元を扇で隠したまま目を三日月型に細めて、艶っぽい笑みを浮かべる。
「面白いもんを手に入れたから、見せに来たのさ」
 耳障りなぐらい音を立てて、扇を動かし風を送っている。とはいえ、この女はそれでなくても普段から涼しげな顔をしている。暑いだの寒いだので口で不満を洩らしても、眉まで歪んでいることはない。黒一色で整えられた一見暑そうな服装ではあるが、羽織った上着の下から白い肌の腕が透けて見えていた。思っているより薄手でできているようだ。手に持っている扇の薄浅葱の面が差し色になっていて、妙にバランスが取れている。それを広げたまま私に向かって差し出してきた。
 薄浅葱に染められた、和紙の上には墨で画が描かれていた。扇は舞踊や茶事によく使われる。めでたい席や、晴れやかな時事に多く使われるせいか、絵柄は必然的に派手な草花や場面が、鮮やかな色で描かれる。だが、差し出された扇は、墨一色で描かれた不気味な百鬼夜行の図案が描かれていた。

 角を額に生やした赤子の様な顔の妖怪を筆頭に、尾が二つに分かれた猫が横笛を口にし、犬は頭に立烏帽子を立てて、狩衣を着込んでいる。糸目の狐は笙を口にくわえ、他にも鼓を持った狸やらが二本足で立ち上がりゆったり歩いている。そんな動物たちの他に、顔の中がつるりとした日本髪の町着を着た女。たるんだ贅肉の塊に、手足を付けたような風変わりな者もいる。着飾った少年たちが手に持った駕篭から様々な花を舞い散らせて一行を彩っている。彼らは一様に笑い合いながら、扇面の右から左へゆったり歩いていき、また右の端からひょっこりと顔を出す。扇の上で妖怪たち一行は楽しそうに動いていた。
「ほう……」
 横で女はすごいだろうと自慢げに反応した。まるで描き手の様であるが、こいつには絵心がない。酷い絵を描く。だが、物に対しては目が肥えていて、無駄に長生きはしていない事を思わせる。扇の絵は筆遣いの流れるような、生きのいい絵である。実際に生きているのだから当たり前なのだが。
 私は受け取った扇を緩やかに扇いでみた。小さな悲鳴が聞こえて、扇を止めると絵柄の中の行列は乱れてドミノ倒しになっている。さっき女がめいいっぱい扇いでいたのを思い出して、少し非難めいた目で彼女を見るが、彼女は涼しげな顔で卓にあるものを見ていた。扇に眼を戻し眺めていると彼らはそれぞれに立ち上がりだす。親切なヤツは上手く立ち上がれずにいる別の者に手を貸してやっていた。墨一色で描かれている不気味な絵柄にしては、彼らは妙に人間くさく滑稽に見える。
「面白いもんだな」
「ふふ、古い物ではないけれど、いいだろう」
 手持ちぶさたなのか、卓の上に投げ出してあった煙草の箱を取って弄っている女を横目に、私はずっと扇をなめる様に見ていた。品としてもいい物だが、それ以上に面白かったのだ。落款は存在しない。骨の竹はいい色合いに艶めいて、それなりに使い込まれている古さがある。だが、絵紙の質は逆によく紙質がいい。扇面の部分だけはあまり昔に作られた物ではないということだ。壊れた物を直した物なのかもしれない。
 妖怪達はそれぞれに立ち上がってまた右から左へ、お囃子を奏でながら楽しげに歩いている。飛び出したりはしてこないところから、紙の外へは出てはこれないのだろう。彼らは倒れたことなど不思議に思っている様子はない。紙面の外のことは分からないのだろう。そんな紙の中の妖怪達のマイペースさに顔がほころぶ。
「あまり見てると……られる……」
 妙に声が遠いなと、顔を上げようとして身体が凝り固まって動かない事に気がついた。凍り付いたというよりは、自分の時が止まったような熱さも、寒気も感じない。おかしいと思っている気持ちすらもゆったりと止まっている。もっと焦ってもいいはずなのだが。
 見つめることしかできない目の前の扇から、冷たい風が吹いた。

「あだっ!」
 したたかに腰を打った。尻餅をついて私はいつの間にか道ばたに転がっている。風は冷たい、そして空気が違う。蒸すような水を含んだ空気ではなく、どことなく乾燥している。ここはどこだ。周りが更地で季節感が全く分からないが、自分の家でないことは確かだ。
 空は常闇に近い。だが、その闇は重くのしかかるような雲ではなく、つつ抜けるような感覚の夜の空だ。自分には懐かしい、闇に近い暗い夜。昔の夜はこうだった。白い砂利敷きの道だけが、妙に明るく浮き上がって見える。視線が地面に近いせいだろう。
 じんわりと痛い腰をさすりながら、私は立ち上がろうとして出来なかった。腰が痛いせいではない。地面についた足と尻が動かなかったのだ。
「……ううん……」
 さすがに焦る。ずっとこのままであるとは思いたくない。見覚えのない場所で、しかも道ばたのようなところで、尻餅をついたままというのはあまりにも間抜けで、この場にあの女がいたら豪快な高笑いを響かせているだろう。想像しただけで腹が立つ。砂利をはいて、周りを見回し、手と上半身が動くのは確認する。腰から上が動いたところで、何かできるわけではないのだが。何となくほっとした。
 左右を見渡す、こってりとした厚い闇に見えるのは白砂利の地面だけで、その地面ですら数歩先で暗闇にとけている。もう一度、両手を使って、腰を持ち上げようとしてみたものの、地面に貼り付いたように動かない。何も出来ずにぼんやりとしていると、遠くの暗闇から気配を感じて、思わずそちらを見た。闇を揺らす小さな光。鼻をくすぐる油の匂いで、光の正体が提灯であるのが分かる。風とともに聞こえてきたのは軽やかなお囃子。聞き覚えのある旋律に見つめていた扇の絵の中にいるのだとようやく分かった。火を灯した提灯とともに踊る一行が私に向かって近づいてくる。
 先頭で角を生やした赤子の様な鬼が、笑いながらお囃子に合わせて拍子を踏んでいる。身軽で踊り、後ろの行列を連れ合うように勢いがいい。横で鉦をならして歩いているカワウソが時折、頭に被った笠を被り直しながら歩いていた。絵柄では見えなかった妖怪が幾つもいるようだ。子供が道に花をまき散らし、横で同じような背丈の子供が豆腐を片手によろよろ歩いていた。行列は私が転がっている間近で、花を蒔く稚児らしき姿の着物の柄ひとつずつが判別できる。一歩の距離。

 ふと目につく。妖怪達に紛れていたのか人間が見える。稚児らしき小さな子供たちと違って、少し馴染んでいないような顔をしていた。楽しげな雰囲気につられて輪に加わったものの居所がない感じである。漠然とそんな姿を見て、死人のようだなと思った。
 しゃんと一際大きな神楽鈴の音が聞こえてはっとした。列の中の人間の独りに目がいく。さして目立たない淡黄色の夏用の単衣に、緋色の半巾帯の女がいる。胸が粟立った。
 淡黄色の女を私は知っている。機嫌がいいときあの色合いをよく着ていた。いや、そんな女は知らない。問答のような物が、頭の中でぐるぐると巡った。記憶がまとまらず、頭に浮かぶ記憶は断片的でおぼろげだ。だがその記憶に滲んだ感情は、湧きだつほどに胸をかき乱す。知っている女があの輪にいる。いや、知っていただろうか、名前は思い浮かばない。
 ずるずると思い浮かぶ場面が、頭を揺るがした。目眩がする。儚げな、すこし印象の薄い顔。いつも顔色が悪く、光に透けそうな肌をしていた。笑うと右頬にえくぼができ、泣くときも同じ顔をする。梅雨時期に決まったように必ず言う言葉。
「……雨露に濡れた重そうな小手毬を見てると、死にたくなる」
 私は何と答えたか、怒鳴った気もする、押し黙った気もする。毎度言うその言葉にため息をついたかも知れない。頬を叩いたかも知れない。忘れたのか、していないのか、自分では……今の私では分からない。

死にたがりの女を私は救えなかったじゃないか。

「馬鹿な……」
 掠れた声がついて出た。慌てて飲み込むが間に合うはずがない。お囃子に紛れて、聞こえない事を願うが淡黄色の単衣の女はゆっくりと立ち止まると、こちらを向いた。身体が強張る。背筋が凍る。彼女は私を見止めると、にこりと笑った。右頬にくっと入ったえくぼができる。気が抜けそうになるのを何とか、砂利を握って堪えた。
 お囃子が陽気な拍子で鳴る中で、女は微笑んだままその場に佇んでいた。ささやかに動く口から出る声は聞こえない。聞いてはいけない。あえぐように腰を浮かして後ろに逃げようとしたが変わらずに身体は動かない。
「--あ--き」
 名前を呼んでる。--人間だった頃の私の名だ。
「……ぶな……」
「--き--か様」
「やめろ、その名で呼ぶな!」
 砂をかいた手で耳を塞ぐ、耳元で砂粒が擦れる音がした。襟首に零れた砂が入っていく。幾度も呼びかけているのか小さく口がもごついている。小さく、はっきりものをしゃべらないのは、気まで塞ぐからやめなさいと注意したのに。
 ゆっくり、一歩一歩近づいてくる。汗が身体を濡らしていく。背筋に垂れる一筋が、寒気になって身体を走っていった。耳を塞いでいるので声は聞こえない。だが、女の口元は動いている。無意識になんと言ってるか読み取ろうとして、慌てて視線を下にそらした。
折れそうな首筋、襟から覗く長い首に食い込んだ縄が垂れ下がってそれが、口元の動く仕草に垂れ下がった小手毬のように揺れた……。

「あ--」
「あ--そう、浅生!」
「ようし、次気づかなかったらこれだ」
 目の前で卓の上に置いてあったガラスの灰皿を手に持った女が神妙げな顔で頷いていた。素振りをしてる。当てる気だ。そんな女に気づいて眼を動かした。私の動きに、灰皿を手にしていた女は紫色の目をきょとんとさせたあと、残念そうに灰皿を卓に戻した。横を見ればご丁寧に、中に入っていた灰を掃除してあった。卓の上に広告を丸めた物が転がっている。
「仕方がないね。何度も呼んだのに」
「あー……えーと」
「浅生、しっかりおし。扇を見つめすぎるから、そこに意識を持って行かれたのだよ」
 名を呼ばれていつの間にか、身体に籠もっていた力が抜けた。背筋から汗がしたたり落ち、脱力した手から音を立てて扇が落ちる。ぎょっとして、扇を凝視していると、ひょいと傍らにいた女がそれを拾い上げ、少し絵を眺めてから音を立てて畳んだ。ぱちんと小気味のよい音が部屋に響く。その音が起因になったのか、意識がはっきりする。額の汗を着物の裾で拭いながら、背後の庭先を窺うと女が来る前と変わらない庭の風景が広がっていた。
「……んふふ、何を見た?」
「うるさい。……お前は平気なのか」
「私は過去を持ってないからね。見る物がないよ」
 扇を広げ見せつけるように、恍惚とした顔でその扇面を眺めている。私は正直、もうそれを見たいとは思わなかった。目をそらし代わりに、煙草をくわえる。だが、火を付けようとマッチを手にしたところで煙草を脇から取られた。
「服に匂いがつくだろ。なあ、何を見たんだい」
「……死にたくて、死んだヤツだ」
 再び音を立てて扇を閉じる。女は鼻から息を抜く、ふうん、と言うような音を湿った部屋に響かせながら、女は扇で遊びはじめた。耳障りだが止めはしない。扇の奥で、妖怪たちが広げたり閉じたりする衝撃で慌てているのか、お囃子は拍子が乱れて曲になっていなかった。
「貸せ」
 扇を弄って遊んでいる女に向かって手を出した。女は少し考えて、考えた割にはあっさりと私に畳んだ扇を差し出してきた。開こうとして含むような笑みを湛えた目に気づく。その目から逃げるように、彼女から背を向けた。
 雨は止むことなく降り続いている。雨足は徐々に強くなってきているようだ。あと3日は降り続くかも知れない。そんなことを考えながら、庭を見つめた。
 低い敷居と庭の向こうにある隣家で、部屋からは空はほとんど見えない。外も蒸すのだろう、すこし雨が靄ついて、外の色彩はどこかくすんで見えた。青い紫陽花の蕾の横で白い小手毬が重い露を払うように、ひと揺れする。それを見て心なしか、苛立ちと疲れの入り乱れた感情がわき上がった。だがその恐怖に似た感情を何というか、私はもう忘れた。人を止めて三百年。人としての時は終わっている。思い出すことのない人としての記憶。ため息混じりに花から目を離し、扇に目を落とす。完全には開きはしない。絵柄が見えない程度に開き、静かに閉じる。さっきから女がやっていたのと同じ仕草で扇を弄った。
「……長雨に愁いし庭の傍らに頭を垂れる小手毬の花」
「あー!」
 ぼんやりつぶやいて、閉じた扇を掌に叩きつけた。歯切れの良い音が部屋に響き、雨音に消えていく。同時に傍らで女が短い声を上げたが遅い。
「あー……あー」
 悲惨な声が横で響いている。落胆する女の方へ向き直ると、扇を軽く放り投げた。上手い具合に放物線を描いて飛んだ扇を、女はきちんと受け取る。酷く残念そうに眉が下がって、次には子供のように頬を膨らませる。だが、心から不機嫌そうな顔ではない。どこか仕方なさそうな諦めの顔だった。そんな目で私を見るので、女の哀れむような視線から逃げるように目を彼女の手の中の扇にうつした。
「もったいない」
 女は受け取った扇をゆっくりと開いていく、扇から白い花びらがこぼれ落ち卓に散った。開ききった扇面には、妖怪たちの行列はなく、墨で小手毬が大きく描かれていた。墨一色の細かい花の絵は、誘うように垂れ下がっている。お囃子の余韻は、扇の中の庭先に降る雨の音に変わっていた。
「……雨は止むかな」
 もう一度煙草を取り出し、口にくわえる私に女は何も言わず、絵柄の変わった扇で部屋の空気を扇いだ。白い小さな花がぱらぱらと部屋に舞い、かすかな花の匂いを部屋に散らせた。