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己の中 鏡の外

鏡を手に入れたのは、偶然だった。
厭厭ながらに就いた工場の仕事を終えて、帰る道筋に、珍しく幾人もの人を見た。
普段であれば、誰も居ない片田舎の荒れた小道で、そんな幾人もの人間を見ることなどはなかった。だから不思議に思った。その複数の人間は、無言で道の端に置かれている車にいろいろと大きな荷物を入れていた。指示をしているのは女のようだった。紫の和装が目立つ。
ただ、通り過ぎるのもなんなので、私は声をかけた。紫の瞳の不思議な雰囲気の女だった。
「お引越しですか」
 その紫の瞳をした女は、屈託のない笑みで、私の言葉を受けた。
「ええ、実は、ここで小さな店を構えていたんですけどね。金が出て行くばかりで仕方がないので、やめるんですよ」
 店をたたむにしては、ずいぶんとうれしそうだった。カラカラと笑いながらさらりと言っている。趣味で開いた店なのだろう。金持ちの道楽は、私にはわからなかった。
「あるもの全て、持っていくのですか?」
「いえ、必要な物だけ持っていきます。大きくてかさばる物とかは、置いていくしかないでしょうね」
 女はそういって、視線を店先(だろう。引き戸の前にいろいろと大き目の物が置いてあった)にうつした。そして、しばらく眺めてから、はたりと気づいたように、私に向き直ってこういった。
「気に入った物でもあったら、持っていってくださいな。たいした物はありませんけれどね」
「いや、しかし、それはご迷惑でしょう」
 私の辞退の言葉に、先のようにカラカラと笑いながら、女は言った。
「捨てるしかない物ばかりですから、むしろ、そんなものはいりませんかね?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
 言いよどむ私にはやり、笑いながら、女は、その立てかけてある物のところへ、私を引っ張っていった。
「まあ、気に入らないのであれば、仕方ありませんけど……」
「はぁ……」
 しょうがないので、私はその置かれてあるものを見た。いろいろとあった。化粧台、桐のタンス、西洋風のランプ。種類もさまざまだった。その中で、目を惹かれたのは大きな壁掛け用の姿見だった。こまやかな細工の施してある金の額に縁取られた大きな鏡である。古い物であるのか、鏡自体は少しばかり曇っていた。その曇った鏡面には私の大きいだけの姿が映っていた。ただ、それだけなのに目が離せなくなってくる。
「…………」
「お気に召した物はあったかい?」
 思っていたよりも、見入っていたのだろう。いつのまにか真後ろにいた女に声を掛けられて飛び上がるほど驚いた。
「……え! あ、ああ、いや、この、鏡……」
 どもりにどもって、何を言っているか自分ですら理解できなかった。その言葉をうけて、女は笑いながら聞いてきた。
「これかい? 良い目をしているね。ふふっ」
「え、あ。はぁ」
 よくわからなくなっていた。答え様がない。気に入った言うよりは気になった物なのだ。見ていると目が離せない。そして、見ていると引き込まれていきそうになる。いつのまにか、持って帰ることになっていたらしかった。
割らないように気をつけながらの帰り道。車に乗っていく女に言われた言葉だけが、頭を巡っていた。
「古鏡には、魔力が宿るといわれるよ。月には気をつけておくんなさいね」
このときはわかっていなかった。だから、私はその貰ってしまった鏡を、小さく狭い一人部屋の窓際に立てかけていたのだから。

 鏡をもらってしばらくは、小雨が続いた。残暑も終わりに近づいた生暖かい雨は、全ての空気を秋に変えてからやっとやんだ。
雨と同じように私の仕事も妙に忙しくなり、私は帰りが遅くなった。長雨が止んだその日も、月が高々と昇ってからの帰りで、私はふらふらと重い足取りで家についた。億劫にドアを開け、重そうに靴を脱ぐ、入ってすぐに敷きっぱなしの綿のへたった布団の中に入ろうと、顔を上げたときに、私は見た。
 立てかけてある鏡に薄物の洋服を着た女が居た。いや、女というには幼い、少女だ。黒い髪はつややかに煌いて滝のように流れ落ちている。
月明かりの所為だろうか、暗闇に光り輝く白い肌は向こう側が見えてしまいそうに薄い。黒く滲んだ瞳をゆっくりと覆うのは長いまつげ。唇は潤んで赤く、ふくよかだった。
 疲れが目にまできたのだろうか。疑った。もしくは、物盗りかなにかかとも。取る物もないような部屋に、こんな幼い物盗りがいるわけもないのに、そう思った。
 辺りを見回して、私以外に人が居ないか調べる。鏡に映る位置にいるのは私だけだった。充分見回ってから、私は意を決して鏡の前へ近寄った。すると少女も近寄ってきた。
 不思議そうに眺める顔は、小さかった。覗き込むように私を見つめてくる。黒い瞳の奥に、情けない顔をした、角張った私の顔が映っている。ぱちりと彼女が瞬きしたとき、同じように私のどこかが、ぱちりと瞬いた。
「あ……」
 自分自身の反応に驚いて、私は思わず声を上げた。すると少女も同じように、あの小さくて赤い潤んだ唇を開いた。
カッと体中の熱があがった。
だくだくと血の流れが速くなったのがわかったとたん、私は彼女を見ていられなくなって、何も言わずに冷たく硬い布団に潜り込んだ。

 自分の異常に早い鼓動を聞きながらも、いつのまにか、寝入っていた。はっと目を覚ましたときにはもう朝で、私は昨夜のことは夢ではなかったのかと思った。
念のため、鏡を覗いてみたが、映っているのは、なさけない己の姿ばかりで、あの少女はかけらも見当たらなかった。
少女の容姿を思い出したとき、あの感情も思い出してしまい。突然、恥ずかしくなって、私は急いでいつもならば厭厭ながらに行く工場へ走って行った。
 だが、夢ではなかった。帰った家には、やはり月明かりに照らされて少女がいた。なぜかうれしいと感じ、また、あの歯がゆい、どくどくとした血の流れを感じた。だけれど、それすら、うれしいと感じていた。幾日か私と少女は見つめ合っていた。
少女はしゃべることはしない。声を上げない。鏡の向こうにいるからなのか、しゃべれないのか、よくわからなかった。
ただわかったのは、彼女は月明かりに照らされているときだけそこにいて、それ以外はそこに居ないということと。私は、その少女のことを愛してしまったということだけであった。

幾日が、幾月になって、私の思いは過剰となっていった。
その黒くしなやかに長い髪を手で梳いてみたい。
白い肌を指先でゆっくりと、なぞっていきたい。
赤い柔らかそうな唇を幾度も吸いたい。
力をこめれば折れてしまいそうなその細い身体に私の腕を絡ませて……
思いが募るほど、私の思いは酷く淫らになっていった。あさましい。なんてあさましいのだろう。
そう、思いながらも私はその考えを捨てることができなくなってしまった。私は病んでしまったのだ。

 ついに私は工場へと行くことをやめてしまった。朝がくるたびに、早く夜がきてほしいと願い、外へは一歩も出なくなった。
夜は夜で、しゃべらぬ少女を見つめ、月明かりを浴びながら、少女に自分の気持ちをとうとうと語った。ただし、綺麗な部分だけを。

もう、月日のほうも曖昧になり。募り募ったあさましい思いしか、私の中になくなった頃。私は絶えられなくなり、その思いを少女に告げた。
「私は、私は君を抱きたくて仕方がない。お願いだから、そちらに連れて行ってくれないか。はちきれてしまいそうだ。狂いそうだよ。お願いだ」
 私の言葉がわかっていないのだろうか、少女は黒い瞳をきょろりと私に向け、首をかしげた。
私は鏡に手をかける。だが、鏡面は、硬く私を拒んでいた。
「私は、私は向こうにいけないのか……厭だ。お願いだから私を」

「なんだい、私の忠告は、聞けなかったのかい」

突然、真後ろから声がした。振り向いてみると、女が居た。あの、この鏡をくれた紫の瞳の女が。
驚きのあまりに言葉が告げなくなってしまった私に、女は、呆れた声を出しながら、ため息をついた。
「いっただろう、古鏡には魔力がこもるとね、月にはお気をつけ、とそう、いったじゃないか」
 月明かりの届かない、入り口の近くになっている女の顔はよくわからなかった。ただ、あの紫色の瞳だけは月明かりの細い光を反射させて、私を見つめている。
「な、何が言いたい。忠告を聞かなかったら取り上げるのか?」
 私は思わず、鏡をかばった。奪われてはならないと、この少女は私の物だ。
「別に、取り上げたりはしないよ。くくっ、思ったよりも面白いことになっていたしね」
「?」
「……おまえさん、その鏡の中に見えるのはなんだい?」
 笑みを含めた顔のまま、女は私にそう聞いた。何を言っているのだろう。見えるではないか、白い肌の綺麗な少女が。
私の言葉に、女は、眉根を上げてことさらにんまりと笑った。
「少女か。そうかそうか、面白い」
「いったい何が面白いんだ」
 いらいらする。私は、少女と話があるのだ、出て行ってくれ。そう言ったが、女は受け入れなかった。出て行くそぶりすら見せない。そして、こう言ってきた。
「おまえさんの望みは……その少女を、抱きたいだっけね、さっき言っていたね。本当に抱きたいかい?」
「抱きたい」
 反射的にそう答えた。すると女は鏡の方へ視線を移した。
「鏡のほうへ、おむき」
 言われるがままに、私は鏡のほうへ向いた。少女がいる。彼女は笑っていた。赤い唇を今彼女を照らしている月のように歪めながら、他愛のない笑みを浮かべている。
そして、鏡の端に、私の後ろにいる女の姿が映っていた。まだ、笑っていた。笑いながら手が優雅に動く。ぱちりと、乾いた音がした。

ぬるりと、鏡から少女の手が出てきた。
「ああ……」
 うめく私の首筋に彼女は手を回してくる。すべるような肌の小さな顔が私に近づいてきた。私は、彼女の髪を手で梳いた。黒い髪は柔らかくするすると手を通った。赤い唇をすこし、躊躇ったものの吸ってみる。少しばかり冷たかったが、目がくらむほどに甘かった。細い小さな身体は、思っていた以上に柔らかく、それでいてしっかりと私を抱き返してきた。そのまま私は彼女を倒しながら、鏡の中にぬるりと入っていくのを感じた。
だから、私は知らなかった。残された女が言った言葉を。

「よほど、自分が好きなんだね。犯したくなるほどに」

この鏡がうつすのは、心に隠れた自分の姿だったのにねぇ……