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牽牛子(けんごし)

 じっとりとした肌に張りつくような空気が志保の身体にまとわりついて不快だった。ひさしの先に恐ろしいほどの日の光がぎらぎらと庭先の朝顔の葉を照らしているさまに志保は戦々恐々とする。外にはでたくない。ただでさえ冷房もない部屋で管を巻いているところなのだ。祖母の家である。中二の志保は夏休みで田舎に帰ってきていた。朝、弟がプールに行きたいとダダをこね誘われたが断ったため独りである。祖母はきっと畑にいる。この日差しに向かっていく気力は、起きたての志保に残ってはいなかった。
「だるぃー。マジつらい」
 古びたちゃぶ台にのしかかるように突っ伏す。使い染みた木の香りは少しだけ熱気から気を紛らわせてくれた。それもほんの少しの間でしかないが。
「うー……、行けばよかったかな。プール」
 額からたれる汗を手でぬぐいながら、つぶやく。だが十以上も違う弟と母親ではプールにいっても面白みが感じられなかった。田舎に友人は一切いない。夏休みの一時期にほんのすこしいるだけの場所だ。そんな出会いの機会に巡ることもないし、自身の性格からして、積極的に他者にしゃべるようなこともしない。
「宮野とかむーちゃんはいいなあ」
 ひとりぼやく。それぞれの友人たちは夏は帰省ではなく旅行の予定を組んでいるようで、夏休み前の会話の中はそのことばかりだった。宮野に関しては行き先が海外なのがまたうらやましい。自分の家など、海外旅行は夢のまた夢だろう。
「あー!! もうしらなーい!」
 暑苦しい日差しと空気の中で、イラつくようにせみが鳴きだし志保は課題ノートを放り投げた。薄いノートが宙を舞い、畳の上に音を立てて落ちる。鉛筆も勢いよく転がって部屋の隅に落ち着いた。課題ノートははっきりいって手がつけてない。母が帰ってきたときの体裁用である。誘いを断ったときの口実に使ってしまったのだ。あれは、最終的に終わっていればいいんです。そんな言い訳を心の中でして、這うように隣の部屋へと移動していった。
「なんでばーちゃんちクーラーないのよ。暑すぎーもうイヤー!!」
 隣接の部屋へ倒れるようにはいってから、大の字に畳に倒れた。祖父の部屋で普段は入らない。だが居間の部屋よりもそこは涼しかった。すだれ越しに見えるまぶしい日差しはほんの少し世界を仕切ってくれているようでそんな隔絶感が心地いい。
 居間の畳部屋よりもずっと狭い。八畳間、机はない。祖父が亡くなったときにすべて撤去したのだ。置いてあるものは床の間の掛け軸となぜか床框に何も生えていない植木鉢がおいてある。植木鉢は掛け軸の朝顔の画に合わせて置いてある。ちょうど真正面から掛け軸を眺めると植木から伸びた朝顔が、掛け軸の中で顔を出しているように見える。だが、大振りな渦を巻いた朝顔はつぼみであって大胆な構図に似合わず少し簡素だ。志保にはこの趣がまったくわからない。何で咲いてないんだろ、どうせ描くなら咲いている花を描けばいいのにとしかおもわない。祖母にきくと、このつぼみであるところがいいのだという。いつ咲くかを想像して時間をすごすのがいいらしい。
 とはいえ志保はこの部屋が嫌いではなかった。祖父に関して記憶はない。生まれた当時になくなってしまったから当たり前なのだが、いろいろなうわさを聞く。不思議なものが好きだったそうだ。生きている猫の置物だとか、月夜に軒下においておくとお酒が沸く壷だとか。どこからどこまでを本気に取って買っているものなのかさっぱりだが、夢があっていいなと志保はおもっている。道楽にもほどがあると祖母なんかは思い出すたびに憤慨しているが。
 掛け軸を寝て眺めると、まるで下から大きな朝顔を見上げているようで妙に圧倒される。たしかにきゅっとしまったつぼみは今にも花を咲かせそうにみえ、志保はそんなことあるかしらとほのかに期待した。
 部屋中の窓や戸を開け放っている中にすっとした風が吹いて志保は身体を預けるようにして感じた。冷たくはないが汗をさらうその風は心地いい。とげとげしかった気持ちが緩み、けだるさから眠気を催す。鼻先に香る畳のにおいがそれに拍車をかけるようだった。
「……ん……ねむ」
 ぼんやりとした意識で朝顔を眺めるがまぶたが重くて目が開けられなくなっていく。もったいない気がして懸命にあけていようと思うがうまくいかず、志保はそのまま寝てしまった。

 物音、気配なんともいえないものを感じてすぐに志保は目が覚めた。顔を上げるとぎょっとする。人がいたのだ。開いている戸の向こうは庭である。祖母かと思ったが違って驚いた。色白の背の高い青年だった。つり目の一重がほっそりとして、少々まぶしそうに目を伏せている。見たこともないほど綺麗だと志保にすら感じさせる雰囲気があった。日差しの真ん中で汗ひとつかいていないようにもみえ、それがまた青年の顔立ちを際だたせている。
「だっ、だれ」
 あまりの唐突な出来事と、青年の妙なほどに整った顔立ちに志保の声はうわずった。慌てて起き上がり座り込む。間抜けな寝姿を見られている可能性は大きい。青年は志保のそんな慌てた姿に微笑みかけただけでなんとも感じていないようだった。年の差は三つぐらいありそうな大人びた笑顔だ。
「ここの子?」
 声をかけられていっそう志保は動揺した。顔が赤いのが分かる。なんでこんなに動揺しているのか判断できずに、ぼんやりと彼の言葉に大きく頷く。すだれの外にいる青年はその言葉に感心したように目を開いた。一瞬、瞳が黄金色にみえて志保は目を疑う。だが日の光が反射しただけのようで、もう一度確認すると、一般的な黒目だった。
「そうか、ここの子なんだ」
「……な、なにか用? おばあちゃんなら、畑だと思うけど」
 祖母にこんな若い友だちがいるとは思えず、かといって家族の誰にも当てはまらないようなそんな気がして混乱する。青年のほうも首を傾げていた。違うらしい。
「……龍郎はいないのか」
「た、たつろう? おじいちゃん? ずいぶん前に亡くなったけど」
 なぜ祖父の名前が出てくるのかと首を傾げているとその青年は楽しげに笑った。声を上げて笑うのではなく、満面の笑みだった。一気に恥ずかしくなる自分がよく分からない。だが、亡くなった人の話をきいて笑う彼にさすがに志保も不信感を抱いた。不謹慎だろうと思う。記憶はないが身内を笑われて楽しい気はまったくしない。
「なんのようなの」
 彼の顔立ちに心がよろけそうになるのをなんとか堪えて、志保は意気込んで問いかけた。気合いを入れようとだらしなく座っていたのを正座に切り替えてなるべく自分を大きくみせる。青年はそんな気合いを入れた志保のことなど気づきもせずに楽しげだった。
「そうかそうか、いないんだ」
 ひとしきり納得するように顔をうなずかせていた青年が、はたりと志保を見つめてきた。一瞬、のけぞりそうになったほど志保は焦る。彼の一挙一動にそのつど揺らいでしまう自分が悲しい。
「中に入れてくれないか」
「なんで、人もいないのに」
 さすがに家に独りきりでまったく知らない人間を上げるほど志保も無警戒ではなかった。防衛心が働いて戦いを挑むように強く断る。だが、青年のほうは怯えることも怒ることもなくただ、佇んでいるだけだ。
「その、朝顔。いい絵だな」
 鼻息荒く、勝手に入ってきたら突き飛ばしてやると意気込んでいた志保にその言葉は意外だった。思わず掛け軸を見てしまう。茶色に褪せた紙に青だったろうと思える色の朝顔のつぼみが紙端から垂れるように覗いている。自分も好んでいる分、そういう青年に志保はちょっとばかり気が抜けた。
「あ……うん」
「もっと近くで見たい」
 一瞬迷った。自分と同じ感性をもっていると感じてしまって親しみが湧いた。青年は微笑んでる。満面の気が緩んだ笑みで志保は戸惑った。どうしようか。自分の一存でどうとでもなる。断って当たり前だが、拒絶して彼を気分悪くさせてしまうのは心苦しい。そんな気になってしまう。
「……ちょっとだけなら……いいかも」
 うなずくと青年は素早い動きで上がり込んできた。あまりの勢いに度肝を抜かれてしりもちをついてしまった。まるで上がっていいという言葉を聞くのを待っていたかのような行為に志保は呆れる。
「上がっていいっていうのまってたの?」
「そうでなきゃ上がれない」
 なにを目的に上がり込みたかったのかわからないのに言い分だけは礼儀正しい。困惑しながらも、家捜しをしだすような勢いだったので志保は不安になった。実は泥棒でなどという考えがいきなり沸く。青年の侵入を拒もうとあわてて立ち上がる。
「やっぱ、ちょっとまってっ」
青年の胸位置ぐらいまでしかない志保が必死になって押し返しても、男である彼には叶わないようで祖父の部屋の中央まで侵入を許してしまった。悔しいながらも間近にある顔は志保の心中を動揺させるほどの美麗に満ちていて力が緩みそうになる。
「ちょっとおお! 人呼ぶからね!!」
「……植木鉢か、これで種を取るんだな」
 青年の動きは止まり、志保がただ単に彼に絡んでいるだけになったときのつぶやきに志保は思わず力を抜いた。
「タネ?」
「そうだ、朝顔の種を取るんだ」
 朝顔といわれて目線は自然と部屋の床の間に掲げられた掛け軸へと顔を向けた。青年の視線もそちらを向いている。植木鉢と掛け軸の交互を眺めて笑っていた。
「だって、あれ、絵じゃない」
 呆気にとられたままつぶやく志保に初めて青年は驚いた表情をした。信じられないという疑う目に志保はすこしむっとする。青年は掛け軸と志保を見比べて、勝手に合点がいったようで小さくああと声を上げた。
「知らないのか、咲く」
 断言する青年に志保は思わず言葉を失った。咲くのを期待はしたけれど、本気になんておもっていない。そんな気持ちをゆるがせるほどの断言だった。身体の力が抜けたのを感じ取ったのか青年がふと身動きし、志保があっと思うころには掛け軸の目前に立っていた。まるで見せつけるように自身ありげな顔で、指先を伸ばし朝顔のつぼみに触れる。
「見ていろ」
 長い指先が優しくすべらやかにつぼみを撫でた。志保は背筋がぞっとするような心持ちでそれを眺めてしまう。じんわりと手に汗をかいたのに気づいて慌ててシャツでそれを拭った。きし、という音がしたような気がした。目の錯覚だろうと錯覚するぐらいの曖昧な動きだった。そのささやかな動き重なり瞬く間に朝顔は変化をしていった。
「は……さ」
 驚きのあまりに力が抜けて畳の上にへたり込んだ。青年はしてやったりという顔だ。驚いた志保を楽しんでいるようにもみえるが、志保は彼よりもその指の先で一気につぼみを開かせる朝顔に釘付けだった。手の動きに志保は胸を押さえた。服の上からですら心臓が動いているのが分かるほど、驚きと興奮に自分が満ちている。
「さ、咲いた」
「まだだよ」
 驚きを制する青年にぼんやりと視線を移し彼の指先にまた目を移す。太陽のような形に広がった青い朝顔は白い絞りのような筋を上に向け、教育番組であるような早回しの具合でぐねぐねと動いていく。葉がどこからともなく伸びてき、ひとつきりだったつぼみがもう一つと増えていき次々と華を咲かせていく。圧倒するその動きに魅入り、気づけば掛け軸は朝顔で埋め尽くされていた。その早急な時間の流れは止まることなく続いていく。空を向きめいいっぱい花びらをのばした朝顔が次々と萎んでいく、悲しくなるほど早いその流れに志保は思わず泣きそうになった。葉が茶色くなり花びらの落ちたガクがくるりと回り粒がふくれる。
「あ」
 ぱらぱらと音がして志保は目の前の紙の上から現実に戻された。植木鉢の近くに黒い粒が落ちている。小学生の頃、よく見慣れ、触れたことのある形をぼんやりみつめていると、青年が身をかがめてそれを拾った。
「五つか」
 あれだけの花が咲いていたというのにタネはそれだけしか落ちなかったらしい。不思議そうに青年を見つめると志保に手のひらに乗ったタネをみせてきた。確かに五つ、半月型の黒いタネがあった。何の変哲もない、朝顔のタネだ。
「……どうするのそれ」
「こうする」
 見ていろといわんばかりにつぶやいて、青年は手のひらを口に寄せ煽った。呆気にとられている志保の目の前でその口に含んだタネをかみ砕いていく。想像以上の行為に志保はあんぐりと口を開けてそれを眺めているしかない。種を食べるだなんて信じられなかった。ひまわりやかぼちゃのタネじゃないのだ。どうみても朝顔のタネは食べられるようには見えない。
「苦いな」
 そりゃそうだろう。という言葉すら言えずにただ眺めていると口を動かしたまま青年が近づいてきた。ぎょっとして身を引くが、追いかけてくる彼にのしかかられるほど接近されて身動きがとれなくなった。端正な顔が目の前にある。ぎくりとした。人形か、画のようだった。
「お前も味わえば分かる」
 声を上げるいとまもなく、青年が頭を抑えてあんぐり開けた口に口を寄せてきた。抵抗するより、なにをされたかすら理解できずにそれを受け止めてしまう。気持ち悪いぬるりとした感触に、それが舌だと思うまでに間があった。絶句したあげく押し込まれるように砕けた何かが口の中に入ってくる。
「んー! んん!!」
 手でめいいっぱい青年の胸をはたくが彼は動じずに執拗に口に舌でタネの残骸を押し込んできた。気持ち悪くて泣きそうになり、苦しくて喘ぐと粒がのどを通っていく。砂をかじったような感触がして咳き込みたいがそれすらできない。そうこうしているうちにゆっくり青年が手を離し唇も離した。
「なっ……げほ、なにすんのっ!」
 思いつく限り罵倒して突き飛ばしてやろうとありったけの力を手にこめて振り回したが、それを見越したのか、青年に足を引っ掛けられた。ずるりと畳を滑り、なすがままに上半身が転げた。突き飛ばそうとした手が青年にかすることなく天井を仰ぎ……
……蔓が天に向かって伸びるのを見た。
「え」
「花になる感触はどうだ」
 声だけが聞こえた。身体が自由にならない。志保は視線をさまよい唇からはみ出る緑を見た。指先から膨らむつぼみを感じた。足先を通り股ぐらになにかが根ざす。葉と根が畳をはい頭が割れるのを感じた。
「!」
 目の前にかざした手から、あんぐりとあいた口から赤々とした大輪の朝顔が大きく華やかに咲き乱れた。

「もー志保。畳で寝ないでよ。汗が染みになるわ」
 目を覚ました先にのんきなことをいう親がいた。濡れ髪で涼しげな雰囲気に志保は手で顔を洗った。汗がべっとりとつき不快に思いながらそれを裾で拭く。弟も不思議そうに覗き込んでいた。
「どーした」
 舌足らずな言葉に何の答えも返せず、ただ、黙って起き上がり頭を撫でてやる。産毛のような柔らかい髪が軽く濡れていてちょっとだけ気持ちがよく志保は大きくため息をついた。手はちゃんと指が五つある。足はきちんと二本あり、肌のどこにも葉は生えていない。
「……すっごい。やな夢見た」
 つぶやく志保に小さな弟は顔を覗き込んで心配そうに伺っていた。母親は志保のことなどどうでもいいようで、台所に立ってスイカと格闘していた。どうやら買って帰ってきたらしい。そんな姿に日常を感じて、身体の力が一気に抜けた。青年の姿も、自分に生えた朝顔ももう存在しない。暑さに浮かされて夢を見たのだ。
「ん」
 弟が唐突に手をだしてきた。勢いのある目の前で殴られるような仕草に思わずのけぞる。なにかを握っているようで、志保は素直に手をだした。いまいち年の差のありすぎる弟に強い態度にでられない。ぽとりと手のひらに落ちたのはタネだった。黒い半月形の固そうな。
「おっこちてた」
 素直に口にして母親の元へと駆け抜けていく弟をよそに、志保はぞっとした。唇に指をはわせる。震えて冷たくなっている唇に、あの感触をおもいだして、呑み込んだタネの味をのどに感じた。気持ち悪さと妙な熱に唾を飲み込んだ。掛け軸を見てみる。

 青々とした朝顔はつぼみのままで掛け軸の中にたたずんでいる。だが、志保にはその花はもはや先ほどまでつぼみで咲くのを待っていた花には見えなかった。