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白い手のひら

母の三面鏡から手が出ていた。白い手袋をした紳士の手で、ダンスを誘うように差し伸べられている手だった。
なんだろうと思ったものの、手を取るには恐ろしくて、私は思わず知らん顔をした。
次に気づいたときには、白い手は跡形も無く消えていた。

 この三面鏡は母が結婚したときに、父に買ってもらったものだ。店先でかなり気に入って購入してもらったらしく、母は暇さえあれば、前に座り、髪を梳いていたそうだ。
そんな母は、私が6歳のとき、突然どこかへ行ってしまった。
理由はわからない。家族で出かけようと用意をしている途中、化粧をしに鏡の或る部屋へと向かった、それから母はいつまでたっても玄関先にいた私たちの元へ戻っては来なかったのだ。そのとき、時計の鐘がみっつ、鳴ったことを憶えてる。
 それから私と父は、ふたりきりですごしてきた。周りは、好き勝手なことを言って噂していた。
男がいたのだの、生活にいやけがさしただの、私達、家族がどれだけ幸せに暮らしていたかもしらないくせに。

あの白い手は、母の失踪に関係があるのだろうか。だとしたら、あの白い手はなんなのだろう。
時計を見た。ちょうど、午後三時をさすところだった。私の背中に冷たい汗がにじみ出ていた。
 その晩、私は父にあの三面鏡を捨てるように頼んでみた。
気味悪さが私の躰から抜け出ない、せめて私の前から消えてほしくてたまらなかった。けれど、父はそういう私に悲しげにゆがめた顔を向けてぼそぼそと小さな声で、あれは母のものだからと言った。
悲しみにみちた声に私はそれ以上強くいえなくなってしまった。
いなくなって辛いのは、父なのだ。そして今も帰りを待っているのも父なのだ。私は父を置いてどこかへ行った母などなんとも思ってない。

わたしは時折、三面鏡を覗くようになった。気味悪さは合ったけれど、それ以上にあの白い手をもう一度みたかった。
だけれども、いくら鏡を覗いてみても見えるのは私ばかりで、あの白い手は、指先すら差し出してくれることはなかった。
気味悪さと、好奇心とがない交ぜになって気持ちの整理がつかなくなった私は、毎日毎日鏡の前に座るようになった。

三月ほどたってある日のこと、深夜に私は寝付けなくて、台所に水を飲みに行ったときだった。
母の三面鏡の或る部屋から声がしたのだ。
ぼそぼそとした声に私は、何事かと思ってその部屋へとむかった。

暗い部屋、障子越しに薄い月明かりが零れている。家具はほとんど無い。その部屋に、ぽつんと三面鏡が開いていた。
確か、寝る前に閉めたはずだった。おかしいと思いながら、私は鏡を閉めるために鏡の前に立った。そして、驚いた。
鏡の向こうに違う世界があった。
 煌びやかなどこかの宮殿、天井からはきらきらと光るシャンデリアが飾っており、柱は細かく美麗な細工が施してある。
そんな、異国の宮殿のような煌びやかな会場に、宝石をちりばめた可憐なドレスを着た女達が上品に、華麗にダンスをしていた。
あまりの驚きに足の地からが抜けていった。震えがきた。咽喉が渇き、私は目を見開くしかなかった。軽やかな音楽が聞こえてきそうな
そんな場面の中に、憶えの或る顔を見た。
少しばかり私に似た顔の、幼かった私の中にかけらほどしか残っていなかったその顔の主は、母だった。若々しい顔で年老いてはいない母だった。母は赤いドレスをまとって、軽やかなステップを踏んでいる。
その母が突然こちらを向いた。そしてにこりと笑った。何かを見つけたかのように、こちらを見つめ傍らで一緒に踊っていた男の人の腕を引っ張り、私のほうへとあるいてきた。引かれて母とともにやってきた男の顔は能面のようで、その顔には薄い笑みが貼り付けてあった。
薄気味悪い、薄く張った氷のようなそんな笑みだった。
母は私の目の前に来るとその男に何かを言った。私には聞こえない言葉に男はうなずき手を差し伸べてきた。

白い手袋をした。紳士の手。

紳士の手は、鏡を水面のようにゆがめて私の目の前にあった。ぞくりと、背中に得体の知れないモノがはしった。
心臓がぎゅぅと縮んだ。
私の時は止まったかのようだった。ただ、私は白い手を見つめるので、目の前の鏡を見つめるのに精一杯だった。
いつまでも手をとらない私に、母は業を煮やしたのかさらに、母が手を差し伸べてきた。
細く白い手を。

とたんに、気味が悪くて吐き気がした。腹の底から何かがこみ上げてきた。そしてちょうど、居間にある大きな時計が三つなった。
それを合図に私の中から何かがはじけた。勢いのまま、鏡の前に置いてあった備え付けの椅子を掴むと鏡に向かって振り下ろす。
ちりちりと火の粉のようにガラスの破片が飛び散った。もう私はやみくもに、がむしゃらに椅子を鏡に向けて振り下ろしつづけた。
ごつんと、汗ばんだ手から椅子が飛んだ。髪が眼にかかって良く見えない。払いのける気にもなれず、私はその場に座り込んだ。
耳の遠くから、どたばたと廊下を走る音がする。そして父の声がした。父が何かを言っていた。だけれど、耳鳴りで声が聞こえない。
頬に痛みが走った。叩かれたのだ。そうしてやっと、視界が開けた。
 そこには泣き出しそうな歪んだ顔の父が私の目の前にいた。耳鳴りはまだする。父の向こう。散った硝子に埋まって何かが倒れているのがみえた。
人だ。私に似た顔。赤いワンピース。ああ、あれは出かけるときに着ていた母のよそいきの服だ。

さらに濃い赤が滲んでいく、床と硝子を飲み込んで、父の足元にも広がっていった。鏡の向こうから母は帰ってきた。
一寸たりとも動くことのない物体となって。そうしたのは私だったけれど。

 閉めきった小さな個室で私はそれの話をした。幾度も幾度も聞かれるので、いいかげんうんざりしてはいるのだけれど。
聞きたいのならばいくらでも話してあげよう。と思ったのだ。
「母がね、鏡の向こうから私に向かって笑うんですよぉ。とても楽しそうに。酷いと思いませんか、私と父のふたりが、どんな風に惨めに過ごしてきか。知りもしないで、母はねぇ鏡の中で遊んでたんですよ。腹が立ちますでしょう? だから、帰ってこれないように鏡を壊してやったんです。でも、出てきちゃいましたけどね。もういいんです。うごきゃぁしないんだから、お仕置きですよぅ」
 呆れかえった相手に向けて私は笑った。満足してるのだから気分は良かった。