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騒がしき夏の日

 たらいに詰めた氷の塊が大きな音を立てて溶け、浅生はふと我に返った。夏の午前それだけはわかるがいつ何時なのかは判断がつかない。朝は確認している。さすがに一日は経っていないだろうとは思った。
 涼めるようにと買ってきた氷塊は半分の大きさなっており、水に浸っていた。たらいの後方には古びた扇風機が回転するそぶりも見せずに置いてある。物置から出してきたのだが、いざとスイッチを押しても反応せず、一時間あまり弄って諦めた。浅生はささやかな自然の微風で氷塊からほのかに感じる冷たさにほっとし、起き上がりついでにたらいの中に手をいれ、程よい大きさの氷を手にして口に含んだ。渇いた口と熱気に晒された身体が冷えていくのがわかる。
 雑然としていた庭を整備したのが昨日、そのおかげか庭は夏らしい青々とした様子でありながら庭らしい整然とした空気を醸していた。とはいえ肉体的な労力は惜しげもなく使ったためか浅生は疲れ切っている。一日経ってもそれはとれなかった。
「おー。綺麗にしたねえ」
 背後から唐突に声がかかって危うく口に含んでいた氷を丸呑みするところだった。咽せてなんとかそれをやり過ごす。振り向いた先にはいつの間に上がり込んだのか顔なじみの紫が居た。
「物音させて入ってこい。せめて」
 ため息混じりに小さくなった氷の欠片を派手割って飲み込む。つっと冷たいものが喉を通り鳥肌が立つほどぞっとした。暗がりに溶け込むような黒い服に黒く長い髪。この夏場にこのなりで歩いてきたのならことのほか太陽の日を集めただろう。だが、紫本人は涼しい顔で佇んでいる。部屋に籠もってぐうたらしていた浅生よりも涼しげだった。
「暑いねえ。やっぱり、この時期は」
 どこに暑さを感じてるのか聞き返したくなるほど涼しげな口調で紫は適当に座って、被ってきたのだろう同じく黒い帽子で自分を煽っていた。浅生は少なからず苛立ちを沸かせつつも表に出さないよう心がける。変な風に苛立ったところで無駄だからだ。氷を手にとり、口ではなくて庭先に放る。打ち水がわりのつもりである。じわりと土を濡らし形を失っていくそれを眺めながら小さく息を抜いた。
「暑いと思うなら、わざわざ外に出なければよかろう」
「いいじゃないか。久方ぶりに仕事が終わったんだ」
 満面の笑みで身体を伸ばし、まるで凝り固まった身体をほぐすようにしている。黒き髪が緩やかに揺れて肩から零れる。仕事と言って、まともだったためしがないし、彼女にそれを問うたところでやっかいな話を耳にするだけだと浅生はそれ以上踏み込まないことにした。自分も彼女も人ではない。まっとうな仕事を請け負う理由もない。寝食など必要のない存在だ。
 つぶやきだか、空気の抜けた喉の音か判別すらできない声を漏らして浅生はむやみに暑苦しい格好の紫から目をそらした。見てるだけでも汗がしたたる。
「鬼灯じゃないか」
 せっかく目をそらしたのに紫はそんな浅生の心中など知らぬようで傍らに腰掛けてきた。せめて日を避けてほんの少し後方で居座ったのが救いである。言われた先に視線を移す。植木が三つ。一つは赤い袋をつけぶら下げている。鬼灯だ。もう二つは朝顔で同じような色合いの花を咲かせた後があった。日が照ってすでにそちらは萎んでる。そのせいか、手前にある鬼灯だけに紫の視線は言っているようだった。
「市で買ってきたんだよ。ずいぶん前に」
「ずいぶん憑いてるねえ」
 実のことかと紫の様子を窺ってすぐにわかった。深い笑みを向けられる理由はだいたいが浅生の受難への興味に過ぎない。確かに鬼灯についているのは実だけではなかった。
「帰りの道中にくっついていたんだ」
「小さいね。三、四歳が五つ」
 日の照る中では浅生にはそんな風には見えない。だが、紫は解るようで、紫色の瞳を細めどことなく眠そうな視線で実をそれに憑いた霞のような存在を捉えていた。浅生がそんな存在が実に憑いたのに気づいたのは帰ってきてからの晩だった。夜な夜な騒ぐのだ。
 気まぐれに外へ出て道中見つけた祭りの市で気に入った苗を買ったのは一ヶ月ほど前である。珍しく電車を使って好き好きに移動し、己の土産がてらに買ったらこうである。晩になると小さい子らは形を曖昧にしたまま遊ぶ。害はないが、面倒くさい。
「憑けっぱなしかい? 騒がしいだろう」
「さしてうるさくないよ。近所に迷惑になるもんでもないし、もうすぐ盆だ」
「提灯は迎えのためだろうに」
 笑みを崩さずつぶやく紫にため息ひとつをゆっくり吐いた。盆に供えることのある鬼灯はいわば死者への目印の代わりとされている。袋の中に灯るように閉じ込められた実が淡い火に見えるからだろう。
「来たら帰るもんだろう。居座られたらたまったもんじゃない」
 夏は呼ぶ。そして呼ばれたものに誘われて漂っていたものもどこぞへと去る。そういう季節だ。鬼灯に憑いたものも時期になったら消えるだろう。どこへ行くかは解らない。三百年生き、死んだことのない浅生にはあの世と言われる場所は縁遠い。
「つまらんなー。騒ぎ立てて毎夜寝られないとかだったらおもしろかったのに」
 人の不幸を楽しげに語る紫に胡乱な視線だけ投げかけて、浅生は庭先を見た。涼しさは皆無に等しくなっていき、熱気が揺らめいて見える。蝉が遠くで鳴き声を上げてる中で甲高い声とともに駆けて入ってくる姿が二つあった。
『こんにちはぁ』
 習いたてで加減を知らぬような大声の挨拶に浅生は眉をひそめたが見かけた姿にため息をついた。十ほどの少年二人が帽子片手に庭先に駆け込んできたのだ。乾いた土は砂塵を撒いて煙たそうだ。
「もうすこし、静かに入ってこい」
「えー。いつも先生に元気がいいって言われてんだぞ」
「まあいいから、離れの脇に如雨露と水道があるから、水をやりなさい」
「はーい。行こうぜ」
「うん」
 二人仲良く対して広くない庭先を小走りにして視界から去っていく。あまりの活気に気圧された浅生は肩をそびやかして立ち上がった。
「なんだいなんだい。あれは」
 見やった先の紫はいつの間にか障子後ろに隠れて庭先の少年二人には見つけられない位置にいた。内心、浅生は優越する。彼女が警戒するのは稀だ。
「近所の坊主だよ。朝顔の観察をしにきてるんだ」
「なんでまた」
「預かったんだよ。住んでるところじゃ育てるには限界があってくやしいとかで」
 家の屋根まで届くように育てるんだと言いながら持ち込んできたのである。いつだったか露店で掬った金魚を譲らされた縁もあって、彼らは完全に知った顔ぶりを発揮していた。ちなみに金魚は彼らの興味から外れたのか近況を聞くことすらしてこない。とはいえ大半を横の紫に持って行かれ、浴衣の柄にされたあげく、開け放っていた縁側のせいで猫に食い荒らされて悲惨なことになったので聞かれないのは浅生にとって幸いなことだった。
「めずらしい。よくやるねえ」
 数十分程度しかいないだろうが、もてなしゼロでは文句を言われると浅生は台所になにがしかないか考える。いつかの来訪者が西瓜を置いていった気がして探してみるかと向かうすがらに紫に声をかけた。
「おまえ、幼い子どもは好きだろう」
 少年を拐かしていいようにしようとしてた記憶がある。
「もうちっと分別のある清楚な子がいい。やたら元気なのは苦手なんだ」
 眉を寄せてやっとこ暑ぐるしそうな顔を見せた紫に勝った気持ちになって台所へ向かった。外では騒ぎ声が聞こえる。たぶん。水と如雨露で遊んでるのだろう。台所の床に転がっていた西瓜を拾い上げ、部屋に戻る。紫は部屋の奥を感情もなしに眺めていた。溶けかかった氷のたらいに西瓜を放り込み、冷えるまで放置する。少年二人は如雨露を重そうに二人で抱えて運んでいた。たらい脇に座り込み放り込んだ西瓜をたらいの中で転がしながら眺める。
 少年たちはゆらゆら揺れながら互いに如雨露と相手を支えつつ植木鉢に向けて傾けていた。なみなみと注ぐ必要はまるでないのだが子どものやることである極端でも仕方がない。そばにあった鬼灯が跳ねる水しぶきに当たって揺られて震えた。
「子らも喜んでるねぇ」
 視線も顔も外へは向けていない紫がこっそりとつぶやいた。あまりおおっぴらに声を出さないのは見つかりたくはないのだろう。浅生は鬼灯に視線を移す。日にきらめく水滴に揺られて震えていた。ささやかな声で幼い子どもの楽しげな声が聞こえる。如雨露を傾けている二人の少年は気づきもせず、ついでと言わんばかりに鬼灯にも水を注いでいた。
「……子堕ろしの実に子どもが憑くなんて皮肉だね」
 いっそうぼやきのようになった紫のつぶやきに、浅生は眉を顰める。
「偶然だろう」
 災難よけ、盆の迎え提灯、とされながらもそういう用途があったことは浅生も知っている。だが、魂だけの子どもたちがそんな用途を知っている訳もない。ただ、明かりに寄る虫のように赤い灯に惹かれてやってきただけだろう。邪推も甚だしい。
「そうかい?」
 どことなく浅生の不快をよみとったのか紫が笑みを向けてくる。その顔をなるべく見ないふりをして浅生はたらいに放り込んでいた西瓜をなでた。皮がひやりと冷たくなっている。
「ねえ。おじさん。この赤いのなんて言うの、実ってたべられる?」
 もう水やりは終わったのか如雨露を地面において、一人は鬼灯の袋をつついていた。二人ともふらふらしっぱなしだったせいもあってずぶ濡れに近い。
「食べたら腹を壊す。食うならこっちの西瓜にしろ」
 子どもたちの目がぱっと輝き二人で顔を合わせてやったと小さくつぶやいた。どことなく生気を吸い取られていく熱気にやられているのかもしれないと疲労を感じながら喜び勇んで縁側に座り込む二人を見ていったん西瓜を下げた。切り分けてくるつもりである。
「おまえも食うか?」
 真夏の強い日差しに比例した暗がりの闇に声をかける。影たる闇と黒い服に包まれた彼女は絶妙に子どもたちの視界から外れている。奥まった部屋などに興味はないらしい二人は楽しげに会話をしていて紫の存在に気づくそぶりはなかった。紫色の瞳だけが夏の日差しの一端を受け取りきらめく。
「細かく切ってくれたら。メロンみたく」
 そんなもの西瓜じゃない。と言いたくなるのを堪えたまま台所に行き、まるまる刻まなくてもと半玉を細かくした。残りは後で片付けようとそのままにして、戻ってくる。
「わーわーすげー」
「俺これ!」
 差し出すそばからかっぱらうように西瓜を奪い、子どもたちはおのおの食べ始める。切っただけではと浅生も手にとり一口食べた。甘くみずみずしいいわば当たりの味。
「ねえ。種はどこ捨てるの?」
「庭先でいい。土に戻る」
 適当にあしらうような指示に子どもたちは逆に喜び競いだす。妙にはしゃいでるのは今の子どもだからだろう。適当に捨てるのはよくないと教わっているらしい。そこら中でされるのはたまらないが、あまりに静々と食われても夏らしくないと内心ぼやく。騒ぎ立てる割に変なところでおとなしい。
「おまえは?」
 紫にひと切れ差し出す。暗がりが身じろぎしたように見えたが、受け取りはしなかった。
「切ってない」
「あいつらと同じように食えばいいだろ。じゃなきゃやらん」
 ふてくされた空気があって、細い手筋だけが光に晒され西瓜をさらって去っていく。
「おい。日誌とやらはいいのか」
「あ、そだ。食ったらやろうぜ」
「ん」
 思い出したかのように慌てて紙を取り出すほうと、まだかぶりついて口をもごもごとされているほうが慌てふためいて持って用紙をつかむ。熱心に書き出すが、西瓜の汁にまみれた手でいいのかと訝しんでしまった。だがもう遅く、とうの二人は気にしてもいなかった。
「子どもだね」
 どこのことを言っているのかは解らなかった。鬼灯の憑き物にしても夏休みの彼らにしても返事は同じである。
「そうだな」
「おまえさんも、あんな感じだったかい?」
「……さあな」
 浅生の人としての記憶は人としての輪から逸脱してしまったときに靄がかかった。だから、いまいち過去を問われてもどうだかとしか答えようがない。が、不思議なもので時代は遙かに違うにせよ、彷彿とさせる対象がいるせいか、いつもながらよりその靄は薄く手に届きそうだった。
「日差しと騒がしさは覚えてる」
 焦げそうな日差し、蝉の声もさることながら、空気に含む声なき騒がしさ。揚揚としたどこかささくれた陽気。自分の子の頃が活発だったのかおとなしかったのかは思い出せなかった。死を試みて山に入り、天女に浚われ気づいたら百年はゆうに超えていた。死ぬつもりが死ねない体で戻ってきて、この血や肉は皮肉にも死を陵駕する力を持っていた。人もそうでないものも浅生の涙一つでも得れば、傷も癒し丈夫になっていく。おかげでやっかいな日々を送り、すべてが面倒くさくなった。
 それにしても、昨日は思い出せなくとも幼い頃の思い出はありありと語れるとは、人間でなくとも通じるのかと浅生は感慨ふけった。
「おまえはどうなんだ」
 しゃくしゃくと、柔らかく赤い果実を頬張って咀嚼しながら逆に問いかける。だが、紫からは返事がなかった。
「なにが?」
「おまえだって私と同じだろう」
 肉体がある。長々付き合って、身体を取り替えるようなことは見かけなかった。人でないものもいろいろある。おおむねが身体を持たない曖昧なもの。身体を持つものはもとより身体を持つものである。化け猫だの、犬神だの。だから、浅生は元、人である。同じように紫もおそらくは人だろう。昨日今日と付き合っている間柄ではない。山から下りてぼんやりしていた浅生に人でないものの有様を教示してきたのは彼女である。大きなお世話だった気もするが。
「私は私だよ」
 なんとも言ない答えをいつもながらの躱しじみた言葉ではなく本心からのつぶやきのように答えた。結局、西瓜の汁を零さないように真剣に食うほうに向いてしまったのか、次の言葉はなかった。浅生も今更気づく。紫の素性を欠片も知らない。知らなくていい気もするがどことなく、しこりが残った。それを言葉にする前に西瓜と一緒に飲み込む。
「ごちそーさまー」
「できた」
 声が上がり、描き終えたのか少年二人は立ち上がる。声をかけられて顔を上げた。挨拶も受け取らないまま、騒ぎあいながら庭先を駆け抜けてもう姿は見えなかった。まだ日にはだいぶ時間がある。
「騒がしいねえ」
「時間はあるんだ。遊びに出るんだろう」
 食い散らかした西瓜の残骸をもう溶けて姿のなくなった氷のたらいへ放り込む。乗じるように紫がゆっくり手を伸ばしてそこへ自分の食べ終えた西瓜の残骸を落とした。
「ああ、べたべたするよ」
「布巾、持ってくるから待ってろ」
 台所でたらいをすすいで片付け、適当な布を濡らして戻る。紫は暗がりから出てまぶしそうに日差しを眺めていた。如雨露が出しっぱなしだったので浅生は紫に布巾を渡すと庭用の下駄を引っかけて庭に降りた。
 照りつける日差しはまだてっぺんまでは届いていない。野ざらしもいいところの下駄もどことなく熱気をすって熱い気がする。少年たちの陽気な残骸が庭を濡らした水でわかった。まだ半分も減っていない如雨露を持ち上げ、打ち水がてらに庭先に撒く。ただ撒くだけではつまらないと少々水に細工をしてみた。まき散らした水はゆるゆると宙を舞い、細かな飛沫になって漂った。風か浅生の動きかどこか無言の流動にその細かな水滴はゆっくりとうごめき形を変えていく。重なり、蝶のように羽を持ち漂いながら違う粒にはじかれ散る。
「おう。綺麗だね」
「濡れるがな」
 空になった如雨露をそのまま離れ脇の流しに据えるとすぐに屋内に戻る。熱で気化していくのか入ってくる空気は冷たく感じた。紫も縁側に寄って出てきていた。濡れた着物の形をたたいて水滴を落とすと上がり込む。屋内から眺めると水滴は空間に浮かんで日の光を反射させていた。揺らめきに光も動き部屋へ届かせる。まぶしく目を細めながら長く保つには人目が気になった。また誰がくるとも限らない。柏手を打つ。同時に水滴は音もなく四散した。かわりに土も草もしっとりと濡れていた。
「いいねぇ。涼しくて」
 ゆらりと身体を傾ぎながら、いつの間にやら縁側に足を投げかけてくつろいでいる紫がいた。脇を抜け同じように縁側に座りそのまま横になった。紫から離れて背を向ける。壊れたままの扇風機が浅生を見下ろす。動いてくれれば充分に見下ろしてくれてかまわないはずだが、首をふることも羽を回転させるそぶりもなかった。濡れている庭先から緩やかな空気が流れてくる。だがそれも長くは続かないだろう。
「騒がしいね。夏は」
 蝉の声は遠くやかましさは感じない。鬼灯に憑いた子どもらが水雫に喜ぶように声を上げている。どことなく貼り付くような熱気はわざと肌を逆立てて去っていくようで、それは騒がしいとも感じられた。
「私は惰眠を貪って自堕落に過ごす。おまえはどうするんだ」
「……。相手してくれないなら帰るよもう」
 呆れた声が聞こえて身じろぎが聞こえた。なんとなく、視線を向けて仰いだ。紫はもう立ち上がり、玄関に向かっていた。
「なあ、もう一度聴く。おまえ、子どもの頃は覚えているか?」
 紫色の目がきょとりと浅生を見つめた。その瞳はなにか考えているようで考えていないような単純な視線だった。通りすがりに八百屋の野菜に目を留めたそれぐらいの単純な視線。
「なにが?」
 問いは問いで返された。その答え切れていない答えに浅生は追求を止めた。『子どもの頃』がわからないのだろう。存在しないのかもしれない。浅生にはその過去を知る統べはなにもないし、興味もなかった。だが、自分ですらある過去が紫には存在しないのではないかと思うとなんとも言えぬもの悲しさと同時に彼女の得体の知れなさに寒さを感じた。