Novel

TOP > ノベル > Short Short > BL以外 > 生真面目に対する好機(きっかけ)と結論

生真面目に対する好機(きっかけ)と結論

夢など見ないと豪語する男がいた。
「あんな物は、人生が悩み事ばかりの人間が見る物だ。私は充実しているからそんな物は見ない」
 誰が聞いても、彼は自信を持ってそう言ってのけた。確かに男は偉い研究家で実績もそれなりにあり、好きなことを仕事にしているため、どんな成果が上がらなくとも試験管さえ見つめていられれば、つらくはないのだった。
ただ、彼は独身だった。だが、彼はその独り身であることもそう苦に思ってない。
同僚たちは、彼を変人と呼んで、尊敬はするもの、遠巻きに見るだけで親しげに寄ってくる者はいなかった。

 ある日のこと、夢を見ないといった男、A氏はとある研究施設からの派遣として、M女史という女性を紹介された。すらりとした長身女性だった。涼しげな瞳でA氏を見ると、さわやかに右手を差し出し、握手を求めた。
「A氏の実績、いつも感心させていただいております。短い間ですが、あなたと一緒に研究ができることを感謝致しますわ」
 M女史の柔らかな手を握ったことでA氏は雷に打たれたような気分を味わった。その夜A氏は初めて夢を見た。
 M女史が出てきていた。初めてあったはずのM女史は夢の中で親しげにA氏に向かって笑いかけていた。
 朝起きて、A氏は夢を反芻した。初めて見たことに感動したのでも、憤怒したのでもない。
ただ、もう一度みたいと思った。

 この日以降、仕事場に入って、A氏のすることは、研究に没頭することから、M女史を見つめることに変わっていった。M女史はあからさまなA氏の視線を嫌がる風にも無関心なようにも見せていない。目が合えば、ほほえみが返され、そこがA氏の心を乱した。
 A氏はその後、M女史の登場する夢を見続けた。元々、淡泊で研究しか知らないような棒のような男だったから、夢はいかがわしいものではなく、思春期の学生のような淡い優しい夢ばかりであった。
 手をつなぎ、微笑みあい話をする。A氏にとって、それはとても幸せで、羨ましいものであった。夢から目覚めるたび、寂しさと願望を感じずにはいられなかった。勇気を出して、気持ちを伝えようか、刻々と悩んでも見るが、恋の駆け引きなど、生まれてこの方したことのないA氏は、どうすればいいのか見当がつかなかった。むろん、相談する相手もいなかった。
 研究は順調で、さくさくとすすみM女史は予定よりも早く、元いた研究施設の方に戻されるということを所長より報告されるとA氏はかなり焦った。彼女の元の研究施設とは本来研究の部類が全く違う。一度離れてしまったら、今度再会できるのはいつか分からない。
 A氏は彼女を研究の成果がでたことの祝いにと食事に誘った。しどろもどろで、何を言ったか覚えてないが、おそらく誘えたのだろう。
「ええ、喜んで」
 柔らかな落ち着いた声で、M女史はその不器用な誘いに了解した。

 A氏は以前、企業の人間に連れられて来たことのある、落ち着いたレストランに彼女を招待した。以前来たときは早く帰りたくてたまらなかったが、今回は違う。ずっと時が止まっててほしいと思うほど、嬉しく楽しい気分だった。A氏はM女史を楽しませようと、必死になった。M女史は、A氏の気持ちを知ってか知らずか、どちらともとれる態度で楽しそうに話に聞き入り、相づちをうち、時に意見した。研究のことしか知らないA氏はそのことを多く語ったが、M女史はその話にいやな顔一つしなかった。
 思っていたよりも好反応なM女史に、A氏は饒舌になった。そして、研究の話の終わり際、A氏は以前、同僚から聞かれた質問をM女史に訪ねた。
「M女史、貴方はどんな夢を見ます?」
 突然、M女史はかたくなになった。それまで柔らかだった顔は眉根を潜め、嫌悪をあらわにしていた。
「夢なんてくだらない。あんなものは現実を見ていない愚か者が見るものです」
 うれしかった気持ちは突風に浚われた洗濯物のように、あっという間に後方へ吹き飛んだ。A氏は耳を疑った、そんなセリフを彼女が言うとは思わなかった。
「立派な研究をなさってるあなたが、そんなことを聞くなんて、思っても見ませんでしたわ」
 がたりと細工の細かい椅子を引いて、M女史は席を立った。そのキビキビとした背中をA氏は消えるまでぼんやり眺めていた。
次の日、M女史は、元の研究施設へと戻っていった。A氏は何も言えなかった。
M女史は顔を合わせることなく、研究所を去っていったからだ。

以来、A氏は夢を毎日見る。優しくて楽しい夢ばかりではないが、夢を見る。生活自体はM女史に出会う前と変わらない。研究に没頭し、試験管を眺められればそれで満足する生活だ。ただ考えが少し変わった。
「夢を見るのも悪くない。見れない人間の方が寂しい人間なんだ」
 M女史が夢を見られる日がいつか来ることを願い、A氏は夜夢を見るのだった。