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暗がりの海

 音しかしない。その音は波寄せるように近くなり、すぐに遠のいていく。姿のみえない夜の海は暗闇に近い。ただときおり、どこからかの光が小さく沸きだつ白い波を浮き立たせ、無惨にもその唯一のみえるものを砂浜へ追い込んでいく。結局、残るのは暗闇だった。
 怖い。いくどとなくきている場所のはずなのに、立ち止まるとみえない波に呑まれてしまったかのように息苦しくなる。それを私はゆっくりとしんと冷えた空気を吸うことで自分自身を取り戻そうと繰り返した。
 しばらくじっとして暗いみえることのない海を眺める。やがてそれは筋のような明暗を作り、星明かりすらまぶしく感じるぐらいになった。砂を確認し波の届かないぎりぎりのところへ行くと座り込む。着ていた服にじわりと何かが染みていく。濡れていないとおもったところにも波は届くようだった。ため息をつくぐらいで私はそれを諦める。座り込んで濡れる規模などたかがしれている。気にするようなものでもないと計算しきれなかった自分を慰めるように考えた。
 月はない。小さな砂粒のような星が瞬きを繰り返しながらささやかに輝いている。目をつぶると遮られてしまうようなか細い光にすこしばかり寂しさを感じた。夜は冷えた。綿入れをかぶってきてよかったと安心はしたが、心許ないのは変わらなかった。鼻の奥がつんとする。それは泣きたいからなのか寒いからなのか分からなかった。

 どれぐらいじっとしていただろう。首を上げて空を眺め、耳を澄まして暗がりから聞こえる恐ろしいほどの大きな波音を聞いているのが疲れてしまった。後ろを気にしてから、ゆっくりと身をさげ横たわる。両手を腹のところで組んでおく。空がいっそう広くみえた。か細いだのとおもった星は予想以上の数を成し、それこそ砂粒のような無作為に散らばる星は暗がりのみえない海と同じような恐怖を感じた。自分がちっぽけすぎて、怖い。おもわず身を縮めた。身体を横に倒して丸まった。肩を抱く。爪が食い込むがかまわない。
「怖いなら、家に帰れよ」
 声がした。陰る視界に空の方をみる。暗がりが私を覆っているとおもった。波に呑まれる。と震えたら、それは私の肩を叩いてきた。よくみる。星に浮かんだ顔はよく見知った顔だった。
「相変わらず、怖いのになんで海にでてくるんだ」
「寝られないから」
 捕まれた肩から手をどかし、砂をつかんで身を起こした。私を覗き込んでいた彼は私の横にすぐに座った。くっと笑って、私の頬を軽く撫でる。砂粒がぽろぽろとこぼれ落ちた。反射的に手を払う。私の無礼な諸行にも彼はめげることなく微笑んだ。その顔に目をそらす。膝を抱え、その膝に肘を乗せて突っ伏する。今度は彼が頭を撫でた。またぱらぱらと砂が落ちる。首を振ってその手を払う。
「また夢でもみたのか?」
「みてない。寝られないといっただろうが」
 ふうん。と空気のような声が聞こえた。彼はそのまま黙っている。ちらりと覗くと目の前に続く暗がりをじっとみつめていた。顔立ちは微笑んでいる。私はそれが気に入らなかった。
 いつでも彼は笑っている。小さな頃からずっと、私の傍らで笑っている。何が楽しいのかどうか、私は聞いたこともないので知らない。興味もないはずだ。ただ、あれをみつめると私の胸は、波音のように音を立てる。どこにでも振りまく笑顔に悲しくなる。苦しくなる。私に微笑まれても、私は笑顔を返せない。どう返せばいいか分からないからだ。唇を引いてみても笑みの形にはならない。鏡の前でやったとき、乱暴に作った畑の案山子に似ていて気持ちが沈んだ。
 胸の中の海は、彼が傍にくるたびに暗く、波音だけを荒立てる。苦しくてしかたがないから、屈託のない彼に私は憮然とした態度でしか返事が返せない。何もかもを知っているように私にかまう彼がもどかしい。
「海は怖いな」
 そういいながら、彼は怖そうな顔をしていない。私のように縮こまって身を抱いて砂の上でうずくまるようなそんな態度はみじんも感じられない。暗闇にも、荒波にもみえない何かにすら打ち勝てるような笑顔を浮かべている。
「怖くない」
 私はおもっていることと逆のことを口走っていた。口を真一文字に結び、眉に力を込める。震えを止めるように縮こまった身体にいっそう力を入れる。無様すぎる自分に泣きたくなる。全然、怖くない態度じゃなかった。本当は心底怖いのだからしかたがない。
 暗い闇、音だけが迫る波、か細い星に彩られた空は広く遠い。遮るもののない大地が怖い。水を無音のまま吸っていく砂も怖い。素直になれない自分が怖い。いいたいことを正直に話せなくて、私は何度、人の気持ちを裏切るようなことをして、傷つければいいのだろう。そんなこと、微塵もおもっていないはずなのは自分が一番解っている。
 傍らに、彼はまだいる。すこしばかり、彼が近づいてきているような気がして私はまた裏腹に、身を離した。もう、限りなくそうやって近づかれると離れる。そんな行為ばかり繰り返している。自分で、そうしておきながら彼が本当にどこかへ行ってしまうことを心の底から恐れている癖に身体がいうことを聞かない。
「小さくなっていただろ」
「眠れないかとおもって横になってただけだ」
 また繰り返す裏腹な言葉に、自分自身が苛立ちを募らせる。それを悟られたくなくて、私は顔を伏せた。ゆっくりとした加重がかかる。彼はめげずに私の頭をゆっくりと撫でた。頭を振って拒否をしても、その手はささやかに離れるだけで、不安になった都度から加重がかかる。ゆっくり、優しく日の当たる白く輝く緩やかな波のようなリズムだった。

 うとうととしていたらしい。頭からその柔らかな波はなくなっていた。代わりに背中が温かかった。ほんの少しの間だったのか長い間だったのか、分からない。彼が居なかった。
「あ……」
 急激に不安に駆られた。抱えていたものが当たってしまった。突っぱねるような態度のせいで、彼を呆れさせたのだ。だが、身を起こそうとして気づいた。温かかったのは綿入れのせいではなかった。後ろに彼が居た。抱えられている。
「お、目が覚めた?」
「な、んで」
 とっさに身じろぎしたが、彼は離してくれなかった。だだをこねるように、身体をひねるが逆に抱き込められてしまった。頬が触れて、それがひどく冷たいことに気づく。私のように彼は綿入れなど着込んでいなかった。どれぐらい私がうとうとしていたのかわからないが、身体が冷えているのは分かった。
「ぬくい」
 ほっとするような声に身体がこわばる。身体の触れあう部分が温かい。心地よさに触れあっていたいのに、どこか焦ってしまう。熱くもないのに汗がでた。海の音など聞こえないほど自分があわてているのが分かった。
「離れろ」
「やだよ」
 心ない言葉に、彼は明るい声で否定を入れる。私はただ、縮こまることしかできなかった。じっと彼に包まれるようにして、丸くなる。海の音よりも、彼の心臓の音の方が近い。死んでしまいたい消えてしまいたい。だけれど、本当はもっと、近くにいたい。
「……怖いのに、よくここにいられるね」
「怖くない」
「嘘だ」
 笑い声の含んだ声で否定された。手に取られるような心中に歯がゆさを感じる。解ってもらいたいのか、解ってもらいたくないのか、自分ですら理解できない。自分の言動を制御できない。彼の前は特にそうだ。夜の海は嫌いだ。怖くてたまらない。自分の気持ちのようにみることができないのに、理不尽なぐらい押し寄せてくる泡がにくい。
「よく知ってるもん。夜より朝、雨より晴れが好きなんだろう」
「嫌いだ」
 首筋に髪がかかった。むず痒さに首を振る。だが、彼は逆に猫のように顔を寄せてきた。冷たい頬が、私の首筋と頬に触れる。近さに身体が緊張する。いっそう近寄るように、回されていた腕が私を引き寄せた。
「いつも、いっていることとおもっていることが逆だよな」
「逆じゃない」
 知っているよ。と確信があるような自信に満ちた声が耳元で聞こえた。大きな波音に紛れて聞こえたそのささやきに、私の中の海が音を立てる。怖くて目をつぶった。

「寒いよ帰ろう?」
「帰らない」
 張り付いていた彼が離れた。背中の心許なさに不安になって振り向くと、彼が笑顔で手をさしのべてきた。逡巡しているとぐっと手首をつかまれて、引き上げられる。ふらつきながら立ち上がると、そのまま海を背に歩き出した。砂が鳴き声を上げる。私も連れられたまま歩き出す。砂を踏む。彼の後をつけるように、引かれるがままになった。
「おまえなんか、嫌いだ」
 彼が微笑みながら私をみた。その笑顔は、私の海を荒立たせる。暗がりの海に徐々に日が差すように、暖かな気持ちにさせるのが、私はうれしいけれど怖くてたまらない。