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愉しき日々は日暮れの向こう

 頭しか見えない青年を、なんともいえない複雑な顔で浅生は眺めた。若者でありながらこの時代に着物を着込み、身を包み折り曲げてひれ伏している。糊のきいた皺目のしっかりついたその着物は、おろし立てであることがすぐに解った。下座にいるのは浅生の方なのだから、平伏しているべきなのは浅生の方なのだが、たまたまそこに巣を作っていたところなので今更移動ができなかった。
 こんな急な来訪をされるぐらいなら、せめてこまめに掃除をしておけばよかった。久方ぶりに遠出して手に入れたまんじゅうの空箱と、出がらしが膨れて溢れた急須に飲みかけのまま、一日近く放置した湯飲みがある。染み抜きしないと落ちないだろうなと渋を眺めながら思案しつつも、徐々に夏をおもわせていく陽気に気分を削がれてごろごろと過ごしていたところだった。
「浅生様。ご機嫌、麗しゅうございます。この度はお知らせのほどがありまして不躾ながら、お伺いさせて頂きました」
「そう、かしこまられても困るんだが……」
 乱雑にも甚だしい自堕落な生活を散乱させた中で、御輿に乗せられて持ち上げられるような態度に浅生は居ずまい悪くそわそわした。青年はひれ伏していた顔をあげ、温和しげながら聡明そうな一重の瞳をきょとんとさせている。
「あの」
「いや……」
 どちらかというと傍若無人な来訪者が多い中で久しぶりの丁寧な相手に、浅生は胡乱な返事をしながら、散らかしていた小物にばかり目がいっていた。青年はそんな挙動不審な浅生を不思議な面持ちで眺めながらも、咎めも不審げな目もくれない。まっすぐ射貫いてくるような目線だった。
 浅生がこれだけ狼狽するのには理由がある。彼は浅生が住まう家屋の持ち主の者だ。幼い頃、浅生は彼と見合っているものの長い間、行き会っていない。滅多に彼らはこの家には来ないし、浅生も彼らの住まいには赴かない。それが唐突に訪ねてきて、平伏されては狼狽もするだろう。丁寧な物言いで「出て行け」といわれたら浅生はそれまでである。一気に野良に成り下がる。
「浅生様は、お変わりございませんね」
 にこりと丁寧に微笑まれて浅生は困って苦笑いをした。人間の十数年は多大な時間だろうが、浅生にとってはあごにひげが生えるかどうか、そんな時間である。彼は人外である浅生のことを知っている。労いのつもりなのだろう。
「えと、今日は何で」
 丁寧な言葉に併せることすらできず、阿呆丸出しでへらりと笑う。どう見ても年嵩であろう浅生のその不遜な態度にも青年はぶれずに濁りのない微笑みを浮かべると、対して崩れていない居ずまいをきちりと整えゆっくりと平伏した。
「この度、私の父、雅臣が死去しましたことをお知らせにまいり、併せて、私、春臣がこの住まいの管理を命じられましたのでご報告にあがりました」
 彼の居ずまいが伏しているうちにと、くだらない物品を端に寄せようと必死になっていた手が止まった。雅臣は浅生をこの家に住まわせた男の息子だった。目の前にいる春臣の父親である。春臣よりも雅臣の方が浅生にとってはなじみ深い。春臣が生まれるまでの間、よく会い、話をしていた仲だった。
 浅生そのものを家に住まわせたのは彼、雅臣の父親に当たる人間だったが、彼はいわば浅生を座敷童のような存在と勘違いをし、奉っただけだった。人間ではない何かを自分の持つ敷地に入れることで、富を欲したのだ。だが、あいにく浅生はそんな福をまとうほどの人外ではなかった。ひょんなことから人の輪からはみ出、路頭に迷い。人間に紛れて生きるすべすら知らない野良だったのだ。
「そうか、雅臣は、亡くなったのか……」
「働きすぎたのですね。心臓を弱めまして……」
「そうか」
 解っていても親しい人間の死は重い。なにぶん人生の半分を眺めてしまったせいだろうか。あまり外や人に興味がわかない浅生であっても重い澱が胸に溜まるような気分になった。
「最後、お会いしたいと申しておりました」
 淡々とした春臣の口調に浅生はただじっと目をつぶった。雅臣は浅生のことを人のように扱った。下手の極みのような将棋を打ち合ったりできたのもその扱いがあってこそであった。友人のようなものだと浅生はおもっていたのだ。
「……君はいくつになった?」
 春臣は自分自身に話題が回ってきてさすがに驚いたように顔をあげた。きょとりとした目が屈託なく浅生を射貫く。
「今年、二十八になりました」
 浅生は目を見開いた。どこか、心はしていたものの驚きはやはり隠せなかった。春臣の姿は所作の落ち着きこそ歳を感じさせるものの、十五そこそこの少年のような姿でしかなかった。

 浅生は福をまとうような人外ではない。浅生は人外のものからしてみれば、とてつもないごちそうであり、人間にとっては『不老』を得られる存在だった。己の血肉、涙から汗に至る身体の分泌物すべてが、いわば『癒やし』の力を持っていた。だが、浅生はその自分を形成している血肉を望んで手に入れたわけではないし、自慢にもおもっていない。常々、常識もない人外が無遠慮に血肉を狙ってくるようになった事態は、はた迷惑なだけであった。
 極力、浅生は自分の血肉を誰かに分け与えようなどとは考えていなかった。まだ人外になりたての浅生には、与えた相手がどうなるか予想がつかず、その責任も取りたくはなかった。そうしたいと想う相手もいなかった。かつて人間だったはずで、その想いも記憶も断片的にはあったが、芯に染みるほど人間と関わりを持てなかった。
「君はその姿はそれでいいのか」
 春臣はただ浅生を眺め微笑んだ。それは屈託のない笑みで折り目正しい居ずまいとは別格の温かい表情だった。
「見た目は問題ではありません。助けて頂いたことが大事なのです」
 雅臣とその父親は、どう見ても病院から連れ出したであろう小さな春臣を浅生の目の前に差しだした。息をしているか怪しげな赤子は微動だにすらせず、かなり危ないことは明白で、目の前で平伏している二人は必死だった。連れ出すこと自体が大ごとだろう。それだけ切羽詰まって、浅生に託してきたのは明白だった。
 いつも気さくに接してくれていた雅臣は必死の形相で浅生に対して平伏して、それまでにない言葉遣いをしていた。そんな態度も浅生にはショックであった。目の前で息絶えつつある赤子の姿も自分を追い込んだ。
 生きているか死んでいるかも解らない赤子へ、腕を晒し幾度も自分の腕を切りつけたのを覚えている。今おもえば切りすぎた。与えた血が多すぎたのだろう、目の前にいる春臣の姿は成長が著しく遅れている。
 血にまみれた赤子はやがて大きな声で泣き出した。感謝の言葉を述べ、赤子を連れて去っていく祖父となった主と、伏したまま顔をあげることなく拝むような感謝の言葉を述べ続ける雅臣の姿を覚えている。

「こんな男に感謝したって仕方がないよう」
 背後からの声に浅生は飛び跳ねるように驚いた。さすがの春臣も唐突な声に目を見開いて浅生の少し頭上を見つめている。ひんやりとした空気が動き、浅生はじんわりといやな汗をかいた。黒い袖に包まれた白い手がぬっと顔の脇から飛び出てくる。体重を座った肩にかけられて顔が下がる。吐息が耳元で聞こえて、なんともいえない悪い気持ちになる。
「重い。おまえどこから入った」
「つれないねえ。庭から入ったよ。開けっ放しだ」
 肝が冷えたのを何とか押し隠し、自分に寄りかかっている存在に嫌悪満載にして告げる。だが相手はどこ吹く風で、とりあえず身からどいた。振り向けば長身の女が暢気に立っていた。
「あ、あの」
「おまえさん、見目が可愛いだけじゃないよ。死ぬのも遅かろうね」
 女は驚いたままの春臣に見下ろすような目線で告げる。春臣自身は唐突に現れた存在そのものに驚いていて、声も出せずに呆然としていた。だが、徐々にその顔は胡乱な顔へと変わっていく。
「……人間ではありませんね」
 春臣がそう告げると女はにんまりと笑い唇を広げた。うんとも違うともいわないが、その表情は肯定を意味しているようなものだった。浅生の知り合いである人外の一人。紫である。
「浅生が人助けのために、手を下すなんてあるのかね。おおかた、住まいを追いやられるのが、怖かったのじゃないのかい?」
 浅生は内心ぎくりとする。紫の言葉は浅くないところをつついてくる。見透かしたような物言いは、消して外れではなかった。春臣を救うことそれだけが自分にできたことである。福をもたらすと思い違いをしている彼らを、騙す形で居座った浅生が福としてもたらすことができたのは、彼らの願いを受け入れ、春臣の命を救うことだけだった。それをしなければ、浅生はなにもできぬ存在として、追い出されていたはずである。浅生には他にできることがないのだから。
「うるさい」
「……私は」
 声が被り浅生はうち黙る。言葉を継いだら、目の前にいる春臣はなにをおもうのかと気がついたからだ。彼も黙るが黙りきった浅生に一瞥をくれ、許しを請うような会釈をして、改めて息を吸うと居ずまいを正して告いだ。
「私は生かしてくれたことを重々に感謝しております」
「エゴだねぇ」
「貴女がどうおっしゃろうと、浅生様のお力がなければ、私はこの世に居なかったことになります。この姿は生きるために得た私の業です。浅生様の業ではありません」
 きっぱりと言い切る春臣に、紫はだた珍しい物を見るように遠い目を投げかけ、ふすまに寄りかかった。五月の初めではあるものの、初夏混じりの熱気にはまるで合わない黒いワンピースは、影に溶けて肌だけがきらめいて浮いているようだ。
「おお、いうこと。おまえさんは、それでいいかも知れないが、浅生はそれでいいのかい? どこかに後悔があるんじゃないか」
「私は……」
 口が詰まる。二の句の告げない浅生を春臣はただ一瞥しただけで、目線はずっと紫を見ていた。その目はどこか嫌悪のようなものが滲んでいる。浅生がただただ責め立てられるのを、代わりに憤慨している。そんな表情に浅生は居たたまれなくなる。
「人外だとしても、私は自分で稼いでるよ」
「人の意識を弄ってるじゃないか、ありもしない人間として自分を認識するように」
「たいしたことないじゃないか。人が他人の細部のことまで気にしていることなんてあるかい?」
 膨大な人の中で人間に紛れて生きるには、人の意識を弄ることが一番楽だと紫からは聞いている。それは昔から彼女がしてきたことで、人間は紫が人間以外のなにかであるなどと欠片も思わず接していく。そうして彼女は永遠に近い歴史を生き抜いてきた。
 関わった人間たちは彼女はどこかで老い、人生を真っ当したのだ、と勘違いをしたまま自分の人生を閉じる。術や意識を操ることは、浅生にもできる。だが、偽りの存在としての自分を、関わりのある人間たちの記憶に焼き付けていく行為はいやだった。自分は生きていると認識したかった。不老であろうとも肉体があり意識がある以上、見えるまま、在るままに自分を据えていたい。願望。
「百人、二百人、ちょいと勘違いをさせているだけじゃないか。おまえさんは、たった独りの人間の生き方まで変えさせた。そちらの方が重いとおもうがね」
「重いよ。重いが、私はおまえとは違うよ……。重くてもするしかなかった」
 雅臣はあまり人外という存在を信じてはいなかった。それ故に浅生のことは人として扱っていた。人間とさして変わらない見た目をそのままに受け取り、遊びに誘ったり、世間話をするためにちょくちょくと顔を見せていた。だが、それも春臣を助けるまでのこと。春臣の命を救ってから彼の態度は変わってしまった。浅生を人外として見、接し方は丁重で崇めるような態度になった。だが、それは浅生が人外として、人間に手を下した結果なのだ。
 春臣は責め立てられるような形の浅生と紫を眺めていた。先ほどまで浮かんでいた嫌悪感はすっと消え、落ち着いたような態度を保っている。外見に合わない落ち着きに浅生はすこし感心した。
「そうだね。助けなきゃ、おまえさんの居場所がなくなる。また路頭に迷って私に頼ることになったねぇ」
「そうじゃない。見捨てられるわけがないだろう」
「嘘だぁ」
「うるさい」
 紫の言葉を遮りたくて溜まらない。浅生の能力を欲しているこの人外は、なぜかそれを他に使うことを嫌っている。私の物だという主張があるらしい。だがあいにく、浅生は紫の物でもなんでもない。彼女がなにを気にくわないのか知らないが。それを春臣の前でつつかれるのは正直息が苦しかった。
「浅生様、そのご婦人の言葉、あまり真に受けませんように」
 春臣が静かに告げ、浅生はただその言葉に目をつぶる。本当にそうだ。今更そんなことに揺らいでも仕方がない。もう起こしてしまった現実があって今がある。雅臣が希望として託した期待。事を起こさなかったらどうなるか解らない自分。息を止めつつある死に行く赤子。結果、春臣は真っ当ではない姿であり、浅生は親しくしてくれた友人を失った。そして自分はここにいる。
「もう、おまえは帰れ」
 どちらへともなくつぶやいた。紫はなにをしに来たのか知らないが、これ以上責め立てられるのも、持ち上げられるのもいやだった。春臣が言葉を受けてひれ伏す。水のような仕草にいまいち彼はすべてを受け入れているのか解らない。
「春臣くん……君はそれでいいのか」
「私ですか? 私はこの姿で生きることがすべてでございます」
 迷いのない言葉は浅生を突く。どこかでそう決断させたのかも知れない。春臣の態度は隙のない箱の様で、そんな風に達観させてしまったなにかが、自分にあるのではないかと不安になる。
「死ぬのが遙かに遅いかも知れない。簡単には死ねないかも知れない。それでいいのか」
「この歳まで生き、父を看取ることができたのは浅生様のおかげでございます。私はこれでよかったのだとおもっています」
 浅生は久しぶりに胃がキリキリと痛むような感覚を覚えた。生殺しのような彼の言葉は自分を苦しめる。納得のいかない行為へ感謝されることがこれほどまでに苦痛だとはおもってもいなかった。
「……いや、……困ることがあったなら来なさい」
「ありがとうございます。それでは私、失礼させて頂きます」
「あ、連絡はありがとう……」
「いえ、祝い事ではないご報告で申し訳ございませんでした」
 さらりと春臣は立ち上がると一礼する。浅生は散らかった物の中で、傍観者のように去る彼を見送った。背後で紫が動く。まだ居た。
「なんだい、あれは。つるつるした石けんみたいな子だね」
 言い得て妙な言葉だが乗れない。どこに落ち込んだ気持ちを乗せればいいのか解らず、浅生は机に突っ伏した。頭が熱くぼんやりする。病などならない存在なのに突然風邪を引いたようなそんな怠さがあった。
「おまえはなにしに来たんだ」
「え。知り合いから、いいワインをもらったから、お裾分けとおもったんだ」
 さっきまでの、責め立てる言葉はどこかに吹いて消えたような口調で、突っ伏した浅生の目の前に曲線を描いた瓶が置かれた。冷えていたのか瓶縁は軽く濡れている。残念だが飲む気は起きない。伏したままラベルをただ眺める。
「おまえさんの軽い手助けで、あんな人ができるとは」
「うるさい」
「ふっふっ、拗ねたところでなにも変わるまいよ。彼はあのまま生きていく。どのぐらい生きるか知らないが、人が訝しむぐらいの長さは生きるだろうね」
「黙れ」
「ま、彼を救うにしても救わないにしても、おまえさんは友人を失っていただろうけど」
「帰れ」
 頬を冷たい指が撫でていく。浅生は反射的にその手を弾いた。乾いた音が響き、それにつられるようにして紫の喉が鳴る。心底おもしろそうに嗤う彼女に浅生は腹に重りでも抱えているかのような気分になった。
「帰るさ。今後、人間に手を出すなら、楽しめるように策を練るんだね」
「そんな趣味はない」
 もう一度、紫は嗤う。楽しむためなら、なんでも巻き込む彼女は人間を軽んじているように見える。ふと気づいた時には紫は居らず、洋酒瓶の縁から水滴が垂れていた。

 顔をあげる気にもならず浅生は伏したままでいた。袖口が冷たいのは紫の置いていったワインの瓶の結露だろうとはおもうものの、拭う気力もなかった。死んでいたい。今の浅生には到底叶わないことなのだが、願わざるを得ないほど憔悴していた。
 開けはなったままだった縁側の戸から向こうは世界が違って見えるほど輝いている。春臣が来たのは昼を過ぎ、午後も半ばを過ぎた頃だったはずだが、今はもう日は暮れつつあり、赤い日が庭を染めていた。夕暮れ時を知らせるかすれた音楽が聞こえる。ただ、なにも考えず浅生は庭先を眺めたまま、静止していた。
 寝てしまったのか意識がなかったのか、ふと背後になにかを感じて虚ろに身じろぎした。人の気配よりも薄く、風に散ってしまいそうなくらい儚い気配。ただ、足が畳を擦り歩く音だけはしっかり聞こえてきた。浅生は声をかけない。春臣ではないことは確かだった。今日の態度からして、彼は黙って入ってくることはあり得ない。そして紫でもない。彼女は普段から足音を立てない。この家は風通しはいい。それ故に見えないものも通りやすい。彼らは声をかければ居座る。聴いてくれるとおもうからだ。この気配もそういう輩だろう。あいにく浅生は相手にする余裕がなかった。押し黙ったまま、気配のする方向とは真逆を眺めていた。
「……」
 なにかをしゃべっている。聞く気がない浅生には、かすれた音にしか聞こえなかった。一向に去る気のない気配に浅生は焦れた。落ち込んでるのだから黙って落ち込ませて欲しいのにと、なんとも身勝手なことを考える。だが、話しかけるのも癪で無視を決め込む。
「浅生」
 かすれた声で名前を呼ばれ顔をあげた。振り向きそうになる衝動を抑える。急には向けない。霞のようなそれは見るだけでも霧散するかも知れない。聞き覚えのある声は若く懐かしい声だった。身を起こし目頭をぎゅっと押さえる。少しばかり意識をしっかりと持ちながらも、後ろのものには声をかけずにいた。
「すまない」
「なぜ謝る」
 思わず声を出した。雅臣の声、死んだと知らされたばかりであるが、浅生にとって不思議ではなかった。おそらく春臣に憑いて来たのだろう。雑多なものたちは入れないよう施している家だが、人に憑いたりしている弱いものはすり抜けてしまう。
「……死ぬ前に会いに来たかった」
「それは、息子から聞いたよ」
 浅生はうな垂れていた顔をあげ、滅多に吸わないタバコを机の端から引っ張ると、火をつけて思い切り吸い込んだ。煙たいがそれを堪えて煙を薄く、長く吐く。狭い部屋は一息で燻っていく。浅生の視界を覆い、この世の者ではない存在は俗世と煙で遮断され、霞のような雅臣の存在は逆にしっかりと家に落ち着いた。
「私は君に謝罪しなければならん」
「なぜ?」
 浅生はもううんざりしてた。謝罪も感謝も追求もそんな感情で突き刺されるのがいやだった。人として薄っぺらくなった人外の浅生にとって、感情は懐かしくもありながら苦しい。人間だった自分はこんな複雑な感情も受け止めて生きていたのだろうか。今の浅生には理解がしがたい。
「いろんなことを」
「なんのことだ」
「君の存在、春臣のこと、死んだこと」
「終わったことだろう。君はもうこの世の者ではないのだから」
 吸いかけのタバコを気もなく浅く吸い、ため息とともに吐く。雅臣の気さくな口調は何十年ぶりに聴くだろう。そんな想いが巡る。若い声であることで彼の姿は想像される。浅生を友人として扱っていた頃の姿をしているのだろう。だが、浅生は振り向かない。畳を踏み擦る音がする。雅臣は浅生の背後をうろうろとしているようだ。死んだことを理解しているものは儚い。自分がどういう存在か解っている。吹けば消え、見れば霧散する程度のものなのだ。執念という根っこも未練という縛りもない彼らはタバコの煙と同じくいつか居なくなる。
「浅生」
 たしなめるような声が聞こえ、浅生は居ずまいが悪くなってタバコを消した。だが、勢いよく吐いた煙は消えない。開けはなったふすまからも、でないように工夫をしていた。部屋を循環するようにゆっくりと白い煙は部屋を巡る。浅生はそれを正面に限りぼんやり眺めていた。
「浅生」
「なにを今更、謝るというのだ」
 苛立って声をあげる。久しぶりのことに浅生は目の前がちかちかした。頭ばかり熱くなって頭を抱えてため息をついた。声をあげるのが辛い。声を跳ね上げたのはいつ振りだろうと自分の冷えた部分が考えふける。
「拗ねるとすぐ背を向けるな。おまえは」
 雅臣の声に笑いが含み、浅生はどことなく恥ずかしくなった。振り向かないのには振り向かない理由があるのだが、雅臣は拗ねてると捉えたのだろう。振り向いてしまえば彼は霧散する。浅生はできずにただ佇んだ。毒気は抜かれほんの少し肩の力が抜ける。
「私はあのとき、春臣をここに連れてくるべきじゃなかったな」
「死ぬのを看取れと?」
「そういう親も世にたくさんいる。生まれながらに弱いというのはゼロじゃない。私はそれに納得がいかなかっただけなのだ」
「だがおまえは連れてきた。それに、ただ看取るような親はおらん。私はそうおもうが」
 看取ることをできるという人間はゼロではないのか、我が子ならと苦心し、策を練るのはどの親でもやることだ。雅臣たちには浅生という可能性としての存在が居た。それだけのことだろう。
「彼を私の血で助けたことに後悔はないよ。少なくとも」
 目をつぶり浅生はそうつぶやいた。春臣は姿はどうあれ、今も生きていて、今後も生きていくだろう。死にくいかも知れない、老いにくいかも知れない。だがそれは、幼いまま死ぬことよりは小さいと彼は感じて生きている。それならばそれでいいのかも知れない。ただ、未熟な血の使い方をしてしまった自分には後悔はしていた。数滴口に含ませれば、彼は人並みの丈夫さ、あるいは少し強い程度で生きていけただろう。それだけが悔しい。
「すまない」
「謝ることではない」
「いやまだだ、私は君に春臣を救ってもらいながら、君への態度を変えた」
 浅生は黙る。平伏し改まった彼を思いだす。そのまま彼は今に至って、背後に立って顔を見せることもできぬ存在で浅生の背後に立っている。切り替わったまま浅生の前に現れ、そのまま死んだ。
「それは仕方のないことだろう」
 春臣の命を救ったことで、浅生に対しての雅臣の認識が変わったのは解ることだった。半信半疑で父親の言い分を聞き、ただの人間じゃないかと外見で確認し、浅生は人間として振る舞った。それに自分の状況も把握しきれないままだった浅生は雅臣の軽い、曖昧な認識に乗る形で甘えたのだ。人としての自分に未練があった。人の輪から外れたと信じたくなかったのだ。
「……会いに行こうとおもっていたんだ。会いに」
「それは聞いた」
 言葉が胡乱になっている。タバコの煙が霧散するのにつられるように、彼の気配も散っている。声は左右へと移動するが、聞こえていた足音は聞こえない。長くない。すべて済ませている存在がここまでしゃべることそのものが希だろう。
「また、こうやって話がしたかった。浅生、私は君の存在を否定して、人として扱っていた。だから春臣の件で怖くなったのだ……人間ではない者がいるのだと」
 浅生は目をつぶった。雅臣の言葉はかすれてきている。もう遅いという声はあげなかった。
「やっと、それでもいいから浅生に会いたいとおもったんだ……だが、身体が持たなかった……」
「そうか」
 顔をうつむけてしまった。目を開け机の上を空虚に眺め目を強くつぶる。煙が目を乾かしていた。彼が背後で霧散していくのが解った。
「将棋は打てないが……」
 彼が言い切ろうとする前に浅生はあえて振り向いた。散っていく姿は笑いあっていた頃の若い頃のままだった。すぐにそれは消え去り、煙と一緒に外へでていく。浅生は背後に身体を向け、しばらくそこを眺めていた。
 かなりの間天井を眺めていたが、浅生は突然立ち上がると散らかっていた床の物をまとめて片す。汚れ物を水に浸し、棚を視線で漁ると手近なコップを二つ手に取り、居間に戻った。ワインは机を濡らし温まっていた。口を外し栓を抜く。傾けると濃く赤い、重い液体がコップに流れた。血のようだなとおもいながら、もう一方にも同じように注ぎ、ひとしきりその液体を眺めてから、ゆっくりと独りで飲む。片方のワインは減ることはない。霧散した友人へのもてなしのつもりだった。