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小指の爪

「また爪噛んでる」
 唐突に雑誌に夢中になっていた道義は傍らにいた彰に言われて、爪を噛んでいることに気づいた。二人きりの部屋の中でおのおの自分のしたいことをしていたところに声がかかって道義は少々驚いた。無意識に噛んでいた小指の爪は、伸びたところがギザギザに切れて取れかかっている。
「あー……」
 ため息をつき、道義は爪をまじまじと観察した。伸びたところを噛んでいたらしく、痛くはないが、かなり見苦しく取れかかっていて爪の端を引っ張ってみるが取れそうにない。
「こら」
 呆れ口調で彰にたしなめられ、歯で噛み切ろうとすると、口元に持って行く途中の手を取られて止められた。手首をつかまれびっくりする。読みかけの雑誌が支えにしていた膝から落ちて音がし、開いていたページが混ざってしまった。
「ちゃんと切った方がいい」
「面倒くさいからいいよ」
 彰に握られた手を軽く振り払って自由にすると、床に落ちてしまった雑誌を拾い上げ、表紙を閉じたまま膝の上に置き直した。動揺を隠すために閉じてしまったページを広げる。もう、どこのページを開いていたのか忘れてしまった。隣にいた彰の動く気配がして、頭に負荷がかかった。座ったままの道義は立つための支えにされたのだ。彰はそばに道義が座っているとこうやって立ち上がる。立ち上がりきったところで頭をひと撫でしていくのだ。二人きりで部屋にいるときだけのその仕草が非常に照れくさい。

 友人から立場が恋人に変わって半月もたっていない。以前は意識もしていなかったはずだが、立場が変われば意識も変わってしまうものなのだと道義は説に感じている。キスぐらいしかしていないのに今は普通にできたことが普通にできない。自分は変わりがないはずなのに、心のあり方が違う。長いこと友人として付き合った時期があったからなのだろうか。親しみが昔からあった分、些細な事が恥ずかしい。
「爪切りは?」
「棚んとこのどっかじゃないかな」
 雑誌に目を向けたまま、そっけなく答える。雑誌を開いて見ていたが指の爪がページにかかってしまって気になって集中できない。取れかけのそれを弄って取れないものかと引っ張ったが取れそうになかった。
「手で取るなよ。怪我するぞ」
 背を向けたまま棚に向かって爪切りを探している彰にしていることを見抜かれて触るのをやめる。見抜かれたのが悔しかったのもあるし、引っ張った時軽く痛みが走ったのもあった。背を壁に預けて丸めていた身体を伸ばしたところで、爪切りを持ってきた彰が戻ってきた。近くにあったゴミ箱を寄せて、なぜか手を差し出してくる。
「何?」
 手を差し出すなら爪切りを受け取るべき自分だろうと思っていた道義は、彰の仕草の意味をわかりかねて、手をきょとんと見つめてしまった。彰は別段顔色を変えることなく、普通の表情で手を差し出したまま道義を見つめ返す。
「切ってやるから手を出せ」
「えっ! いいってー!」
 大きな声を上げてしまってから深夜の時刻に声を上げたことに気づいて道義はぐっと口を噤んだ。広げた雑誌がまた膝から落ちる。さっきより慌ててしまい大きく足を動かしたせいか大きな音がした。
「面倒くさいんだろ。やってやるから」
 彰が寄ってきたので道義は反射的に後退る。だが、逃げ切る前に手を取られ逆に引き寄せられてしまった。手を取られて爪切りを構えられ、抵抗は無駄だと感じてあきらめる。取れかかっていた爪は気づいたとき以上にささくれて今にも取れそうだ。
「弄ったろ、少し痛いかもな」
 甲高い音がして、小指の爪がきれいに整えられる。弄ったときにささくれ立った皮の部分も彰は切ったので軽く痛みが走った。血こそ出なかったものの、結構痛い。
「いって」
「弄るからだよ。しかも、爪も伸びてる、マメに切れよ」
 彰は妙に世話じみたことを時々いう。本人は根っからのそっちの人間で、付き合った男性がみんなだらしなかったせいだと聞いたことがある。だが道義はそれだけではないだろうと思っている。もとから料理は上手いし、大学のノートはみんなから重宝されるほど綺麗だったりするのだから本人の性格がそういうものなのだ。身体は大きいのにこの世話好きな面はギャップがかなりある。
「……道は、よく爪を噛んでるよな」
「うー。昔からの癖なんだよ」
 爪切りの小気味よい音が響く中で、ボソッと言われた言葉に乗っかる形で彰と会話をしていく。いつの間にか全部の爪を切ってもらうことになってしまったが、こうなったら拒んでも仕方がないので道義はおとなしく切ってもらう事にした。小さな頃、母親にやってもらっていた時期のことをを思い出すが、恥ずかしいので口には出さない。
「癖だから仕方がないんだろうが、止めた方がいいぞ、汚いし怪我するぞ」
「気づいたら噛んでんだよ」
 まあ気づかないから癖なんだよな、と笑いを含む声で言われて道義は少しむくれた。子ども扱いのような物言いはよくあることなのだが、今は状況も子供じみた場面だったからいつも以上に子供扱いされているようだ。やすりを掛けてもらって、終わったよ。と一言告げられて手を離される。整えられた爪を一瞥してから彰の顔を見ると、相手はちょうど爪切りに溜まった爪の欠片をゴミ箱に棄てているところだった。なんとなく言葉が続けられなくなって、落としたままだった雑誌を拾い上げ、適当に開いたページを読み出す。彰は畳んだ爪切りを棚に戻していた。その様子を雑誌を見るフリをしながら目の端で追いかけ、彰が道義に寄り添うように座り込むところまで確認してから声を掛けた。
「ありがとな」
「何が?」
 礼の理由は爪を切ってもらったことに関してだったが、詳しく言うのは恥ずかしいのでそのまま黙った。察したのかなんなのか、頭に加重がかかって頭を撫でられる。

 しばらく二人は黙って互いにやりたいことをやっていた。道義は雑誌を読みふけり、彰は慣れた手つきでテレビをつけて気まぐれにチャンネルを変えていた。午後11時を回ってだいぶ遅い。レポート目的で二人そろって道義の家に集まったが結局資料が足らなくてやり様がなくなってしまい頓挫したままになっていた。
「今日は泊まる?」
 なんとなく道義は声を掛けた。こういうことを言うときは目を合わせられない。以前だって泊まったりすることはあったはずなのに距離が縮まった途端に気軽にできなくなってしまった。緊張するのもあるが、彰が二人きりでいるときの優しい目はどうも照れくさくて見ていられない。複数の友人たちと会っているときの目とは視線の感じが違うのがなんとなくわかる。
「手」
 言われて顔を下に向けると無意識に手が口元に来ていた。また小指の爪を噛もうとしていたのに気づいて慌てる。今度は手を包む様に握られて思わず目を見開いてしまった。握られたまま床につけられて困惑するが、彰は特に表情を変えるでもなく道義を見た。雑誌はもう読みようがない、膝の上でずるずると落ちていく。
「何だよ」
「これなら、もう噛まないだろ」
 呆れてしまって口をあけたまま彰の方を見た。いつものように彰も道義の方を向いて、優しげに笑っている。自分も男だから節くれた無骨な手をしている筈だが、彰の手は道義よりも少し大きく道義の手をしっかり包んでいた。その手は爪を切ってもらった時より熱く感じられて彰が照れてるのに気づく。
「……お前馬鹿だろ」
 伝染した照れくささを隠しながらも思わずぼやいてしまった。身じろぎしても手を離してもらえずむしろ逆にぎゅっと握られてしまって恥ずかしさが増してしまう。握られた手に力を入れると押し返すように力を込められた。
「いつも噛むのは小指の爪だな」
 言われてみて道義は握りこまれた手を思い出す。確かに手持ち無沙汰なときは左手を口元に持っていっている気がした。よく小指の爪は磨り減っていて痛いときがある。
「そういや、よくささくれるのこの指だ」
 握りこまれたままの左の手を見てみるものの、無意識にやっていることなので理由がわからないし、どういう状況でやっているのかも厳密に考えるとわからない。手を握りこまれて床に置かれているので体制が悪くなり、横に倒れそうになってしまって道義は居住まいを正した。
「よく考え事してるときに噛んでるみたいだな」
「そうかな? 自分じゃわからないけど」
「……悩ませてるのかもな」
 顔を上げて様子を見ると眉根を潜めた彰が握っている手を睨むように見ていた。道義も同じように包まれた手を見て、悩ませているのなら逆に自分がそうさせているような気がした。道義も男であるし、相手は女でも恋愛の経験だってある。相手を求めようという欲求だってあるはずだ。だが、彰が要求してくるのはキスぐらいでそれ以上のことはしてこないし、そんなそぶりも見せない。道義の意識がその先に踏み込めないのを彰は分かっているのだ。
 躊躇いがちに道義は彰に顔を近づけた、予想していなかったのか彰が身体を仰け反らせる。友達と思っていた頃は近づかなかった距離を縮めても、不快な感じはしないただ、代わりに緊張していた。握られていない手で彰の顔を触れてヒゲの感触に少し笑ってしまう。起き立ての時の自分の顔と同じ感触がする、短い芝のような感触を撫で上げて愛おしさを感じた。
「ひげが伸びてるな」
「……伸びるの早いんだよ」
 道義の方から近づいたことはこれが初めてだったので彰は少し驚いているようだった。だがその驚いた顔はつかの間で、躊躇いなく距離を縮めて唇を重ねた。テレビの深夜番組の音だけが狭い室内でざわついていた。しばらく二人で重なってからゆっくりと離れる。目が合って恥ずかしくなって二人で苦笑いをしてしまった。
「いつもなんか、ちくちくするんだよ」
「悪い。毎朝、剃ってるんだけどな」
 道義の言葉にあごを引いてヒゲを撫でる彰に道義はもう一度擦り寄って顔を近づける、きょとんとしている珍しい彰の表情を見ながら、軽く唇を触れさせるとすぐに離れて目も逸らす。逸らした目で握られた手を何気なく見て、いまだに握られていることに気づいた。握りこまれた手は互いの体温で熱くなって、汗ばんでる。
「手、いつまで握ってるんだ?」
 道義の言葉に彰は目を手にうつし、手を外す代わりにさらにぎゅっと握りこんだ。力を込められて恥ずかしくなって手を抜こうと力を込めたが、押さえ込まれてしまう。
「手を離したら、また爪を噛むだろ」
「……そんなすぐに癖なんか治らないって」
 不貞腐れてため息をつくと、視界の端でちらついたテレビの画面が気になりそちらを向いた。ちょうど番組が終わってテロップが流れていて時刻の節目なのは分かったが明確な時間は分からなかった。
「じゃ、朝まで握ってる」
「……わかったよ」
 あきれ返って道義は傍らに落ちていた雑誌を見つめ、まだ読み切れてないと気づいて空いている手で雑誌の端を引き寄せてようとした。引き止められるように握られた手に力を込められる。
「道」
 略称だが自分の名前を呼ばれて道義は振り向くと、握っていた左手を外してその手で道義は頭を撫でられた。慣れた加重に安心するように目をつぶってまどろんで、二人は三度目のキスをした。