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Green Garden

 空気に匂いがあるというのを、アレッシオは自然地区に通うようになって初めて知った。
有害な物質を取り除く為のフィルタの取り付けられた居住区の中では嗅いだことのない匂いに、最初は驚いたものだった。
 だが、それはかなり昔のことで、今はその噎せ返る様な土や木々の青々とした匂いを心地よいと感じられる様になっている。
 自然を残すために保護されている自然地区は、管理地区に近い部分を解放して、管理されるのに慣れない二世代前の老人や隔離を必要とした人の居住地区として開発されている。
 小さな医療用施設が並ぶ区域を抜け、直に土を踏まねば進むことの出来ない、環境保護区内に、アレッシオの双子の弟、ルキノは隔離されるように住んでいた。
 小さな木で出来た小屋のようなものに彼の身体の為、ひとりぼっちで。

 木に設えたハシゴを慎重に登り、アレッシオはドアを叩いた。自然に開くことのないドアに手を掛けるがそのドアは堅く軋むだけで開く気配がない。
「ルキノ」
 アレッシオは、戸を叩きながら呼びかけた。だが、しばらく待ってみてもいっこうにドアは内側から開く気配がない。またかと思うと軽いため息がでた。
 学校のカバンを背負い直し、片手でノブ、片手を家の壁に添えると力いっぱいドアを引っ張った。ドアを押さえていた木々の幹が裂け、ドアが開く。
 部屋の中は、鬱蒼とした木の葉が、季節に合わない実を付けて育っていた。アレッシオがそれを少し眺めているうちに実は落ちて新しい芽をすごい早さで、芽を伸ばす。
 それを踏みにじって、アレッシオは家の中に奥へ歩いて行った。
「ルキノ! 起きろ。昼はとっくに過ぎたぞ」
 花が床から伸び、花畑のようになっている。ベッドの中に入れていた藁がシーツから突き出て小麦の穂をなびかせ、ルキノの家だけ実りの季節になっていた。
 虫の羽音がしてアレッシオは少しだけ驚いて振り向いた。家を貫いて生えた木の幹にひょろりといた、リスと目が合う。リスはすぐさま幹の上を走って、どこかへ行ってしまった。
 アレッシオは奥にあるベッドに歩み寄ると中を覗き込み、ベッドサイズの形をした小麦の畑の中で、浅い呼吸で眠りこけているルキノを見つけた。
 見ているうちから黄金色に変化していく小麦のベッドで、負けず劣らずの黄金色の髪を揺らめかせて、ルキノはアレッシオの声に、濃緑の瞳を薄く開いた。
「あれ、アル……」
 深い、明るい場所で見なければ緑に見えない濃緑の瞳の視線そのものがぼやけている。傍らで狩り時の色合いまで育った小麦に驚いてルキノは周りを見回し頭を掻いた。
 その仕草にだんだんと瞳に力が入っていく。アレッシオはため息をついて、彼のベッドの傍らに座り込んだ。
「何時だと思ってるんだよ。居住区じゃいまごろ、晩飯の用意してる家があるぞ」
 背負っていたカバンを穂の揺らぐ小麦の上に放る。もう、植物はめまぐるしい成長はしていない。時が止まった様な錯覚を起こすほど小屋に出来た森は成長をゆったりとした時間に舞い戻っていた。
「あれ?」
 そう言うと、ルキノはばつの悪そうな顔をして、気まずそうにだが、笑みを残して目線だけアレッシオに寄越した。何となくルキノの失敗を察して、アレッシオは苦笑する。
「あはは、寝過ぎちゃった」
 誤魔化すように、笑って見せるルキノの表情が面白くて、我慢出来ずにアレッシオはふっと笑った。続けて、ルキノが気まずさのない笑顔を向け、襟足にかかった髪がその表情につられて揺れる。長くなったと思い、アレッシオは無造作にその髪に触れた。
「寝過ぎだよ」
 黄金色の髪は、滑るように柔らかく、アレッシオの日に焼けていない白っぽい指に絡むことなくすり抜け襟足に落ちていく。それがくすぐったいのか、ルキノの顔が少し、くすぐったげに綻んだ。
「平気だよ」
 シーツは穴だらけで、鬱蒼とした麦畑がそこにある。穂を揺らし温かげな色合いでそこにあるのは、ベッドといえる物ではなくなっていた。
 ルキノは眠ると周りの木々を生長させる。それはどんな形になっても彼の傍にあると、小さな芽を出し、かつての姿に戻ろうとする。
 そんな体質に関係してか、彼は立ち上がることも出来ずに、寝込んでしまう。管理地区では治療が合わず、放棄される形でこの自然地区に追いやられ、奇しくも寝起きが出来るようになった。それ以来、ルキノはずっと森の中で特別に住んでいる。治療は施されていない。原因が分からないまま、体質の緩和の環境が分かって、生きているならそれでいいと放置されている状態だ。そんなルキノのことをアレッシオは気にして、ここへ来るようになった。
「跡形もないな……」
 ベッドだったものの傍らの壁から突き出た数年物に見える幹に手を添えながら、アレッシオは部屋の中に視線を巡らした。申し訳程度に設えた床や天井から、無造作に草や幹が生えている。育っているのもあり、枯れているのもあり、ルキノがまた眠りにつけば、また周囲の植物は際限なく発芽と落葉を繰り返すだろう。アレッシオの視線を追い、ルキノがその森になった自分の小屋を眺めて、少し苦笑した。
「いいじゃん、これはこれで面白いよ」
 言い訳じみた、けれどどこか楽しげな声で、ルキノは頭を掻いて誤魔化した。
「そのうち、育った木に引っかかってどっかいっちゃいそうだよ。ルキノは」
 指に絡ませていた髪からアレッシオは手を離すと、そのまま頬へ沿わす。そのアレッシオの仕草を嫌がることなく、ルキノはその手に顔を預け傾ける。少し、目をつぶり、微睡むような表情になりながら、それは面白そうだと小さく呟いた。その言葉にアレッシオは自分が言い出したことなのに胸がぎゅっと縮む。頬に添えた手に少なからず力が籠もって、その些細な力加減に気づいたのか、ルキノが細めた目をうっすらと開けアレッシオを見た。
「大丈夫だって」
 ルキノは明るくそう言うと、アレッシオの手を取り、手を重ねたままベッドの上に押しつけるように手をどかした。人工陽にしか当たっていない、アレッシオの白く細い手と、良い色に焼けルキノのきっちり育った手は一見すると、ルキノの方が兄に見える。彼らは同じ時間、同じ日にほぼ同時に生まれたはずなのに、似ているところは一つもなかった。アレッシオは黒い髪、ルキノは黄金色の髪、顔立ちも、少しばかり堅い顔のアレッシオに、人形のように整ったルキノの顔はそれぞれの両親一人一人に似ていて、育った環境の違いも出てしまい、その似てない差は、年を追うごとにはっきりとしてきて、アレッシオは心なし、それが少し寂しかった。
「な、今日は何持ってきてくれた?」
 ルキノはアレッシオの心中を知らずに、きらきらした瞳で身を乗り出してきた。ぼんやりとしていたアレッシオははっとして、重ねられたままだった手を抜くと、放り出したままだったカバンから電子本を取り出した。電子本を見つけて、ルキノは少し顔を歪ませる。機械が苦手なのだ。
「電子本かぁ……」
 触りたくないのか、ルキノは無造作に差し出したアレッシオの手からその電子本を受け取ろうとはしない。あまりに躊躇するので、アレッシオはルキノと肩を並べるようにして、電子本の操作をした。本。と言っても見た目はただの短い金属棒に見える。小さな方の棒を巻物のように引いて、アレッシオは持っていた方についていた小さなスイッチを押した。風を切る様な音がして、薄いホログラフィが飛び出す。驚いてたじろぐルキノに苦笑しながら、大丈夫だよと声を掛けてやった。
「嫌なんだよ……本の方が全然良い……」
「だけどお前、枕元に置いて寝て、育てたじゃないか」
 以前貸した本が彼の傍らで青々とした小さな枝を伸ばして生長していたのを目撃したのはついこの間のことだ。おかげでアレッシオは大学付属の図書館でなくしたと嘘をついたあげく、平謝りするハメになり結局、ばつとして大学の雑用を一週間みっちりやらされたのだ。本整理など二度としたくない。と思うほど重労働だった。その話をすると、ルキノは不満そうに眉根を潜めて頬を膨らませた。
「だって、持ってきてくれた本、思ってたより難しかったんだよ……したらつい……」
 仕方ないだろうと拗ねてルキノは俯いた。確かに内容は心理学の難しいもので、大学に通っているアレッシオすら端書きだけで、やめてしまったほど高度な学術本だった。
「これ、お前が見たがってた植物図鑑だよ。スキャンして、検索出来るよ」
「う……それは良いけど……。機械は冷たくて嫌だ」
 どうにも乗り気でない、ルキノにアレッシオは仕方がないと、持っていた電子本をカバンに戻した。植物図鑑を所望したルキノは紙媒体の植物図鑑が、どれだけ分厚くて重い物なのか、知らないのだ。全五巻もの分厚い本を手でもってここまで来るのはさすがにやる気をなくした。
「……あー、じゃあさ、操作してくれたら見る」
 自然と顔が沈んだのが解ったのか、ルキノはアレッシオの様子を窺って、静かな声でそう言うとアレッシオの顔を覗き込んできた。アレッシオは覗き込んできたルキノの頭を撫でてやる。長い髪は絡むことなく、ルキノの襟足をくすぐるのか、少しくすぐったげに目を細めて口を結んだ。
「髪、伸びたなぁ」
 さわり心地の良い綺麗な髪をアレッシオは撫で上げる。それに反応して、ルキノは自分の髪の端を触って見た。肌に触れる髪の先が痒いのか、首筋をぽりぽりと掻く。
「うん、おかげで首筋が痒くて」
「いつもは誰が切ってるんだ? いつの間にか短くなってるよな」
「……自分とか、施設の人とか」
「……うっとうしそうだよな。それ、切ってやろうか?」
「ホント? やった!」
 よほど嬉しいのかルキノがぱっと花を咲かせたように、笑顔で振り向いたのでアレッシオは少し驚いて、仰け反ってしまった。
「今度だぞ。道具無いし」
「明日!」
 少し黙ってカバンから、さっきしまった電子本を取り出して弄った。さっきのようにスイッチを押す。最初はタイトルと、著作のネームがくるくると回る。ある金属棒の、二つのスイッチで次のページと前のページと切り替えが出来るようになっている。手慣れた扱いをするアレッシオの様子を、傍らで警戒するように、ルキノが覗き込んでいた。
「触ってみる?」
「やだ」
 触りたいのかと、声を掛けたアレッシオの言葉に、即答するようにルキノは断ると、ルキノはアレッシオの近くに座り直して、かろうじて板として形を保っていた小屋の壁に背を預け、先を促すようにアレッシオの方へ目を合わせた。しょうがないと軽くため息をつくと、アレッシオはルキノの横へ寄り添うと背を預け、電子本の次ページ用のボタンを押した。目次がついては消去を繰り返す。本にして全五冊分の内容がこの中にはすっぽり入っている。膨大な情報を引き出しやすいように、電子本の目次欄には必ず検索機能が搭載されていた。
「……何が見たい?」
「何って?」
 問われてルキノはきょとんとして声を上げた。別に明確な理由があって植物図鑑を持ってくるように言ったわけではないらしい。つくづく紙媒体にしなくて良かったとアレッシオはホッとする。
「調べられるんだよ」
「じゃあ、花がいいかな、見てて楽しいし」
「画面に向かって、キーワード、花。っていえば検索されるよ。短い単語なら何でも条件にしてくれる」
「なんでも?」
「そうそう。花とか、色とか、季節とか」
 促してみるものの、返事をしない物に対して話しかけづらいのか、ルキノは幾度か口をもごつかせるだけで声として発しない。その内ちらちらと、アレッシオの方を様子を窺うように視線を寄越してきて、そのしづらい行為をアレッシオに変わってもらいたいのが伝わってきた。
 ルキノは身じろぎしながら、頼むような視線に気づいて欲しいのを態度で知らせてくるが、アレッシオはあえて反応せず、目を向けて気配だけ様子を窺うことにした。
「むー……」
 幾度か言葉を口に転がせて、結局単語にならずに、音だけがルキノの口からもれて空気に消える。機械に対して声を掛けづらいのがそこまで難しいものかとアレッシオは思うが、手助けする気にはない。やってくれ、と言われるまでは手は出さないことつもりだった。
「ええと、花、白、夏」
 顔を赤くして、精一杯そう言うと、電子本が声に反応して、検索中のアイコンを光らせた。その電子本の反応にホッとしたのかルキノが肩を落として身体の力を抜いたのが分かる。
 検索結果が表示され、その検索結果の多さに絞り込みを行うため、もう一度同じように機械に向かって声を出さなければならないと気づいて、あからさまに面倒臭そうな顔をした。アレッシオは検索結果をスライドショーとして流す設定にして、生えっぱなしの木の幹に立て掛けた。幹の茶をスクリーンにするように、白い花の立体が詳細の文字を傍らに、一回りしてから切り替わる。
「へー、面白いな」
 よほど新鮮だったのか、目を煌めかせてルキノは乗り出す。その乗り出し方が前屈み過ぎて、アレッシオは彼の背中のシャツを掴んだ。

 思っていたよりも、持ってきた電子本はルキノの興味をそそる物だったらしい。くるくると回転するホログラフィに熱中しているルキノに、暇を持てあましたアレッシオは違う電子本を取り出して、学校の課題をこなすことにした。
 タッチパネルを操作して、保存しておいた資料を取り出し、レポートを書き続けていく。課題そのものはそう重い物ではなく、自分自身も好きで取った授業の内容だったので、アレッシオはすぐに興に乗って熱中した。
 アレッシオはかなりの時間、そちらに熱中していて、ルキノのことを気にとめていなかった。頬に触れる麦の穂がゆっくりとだが、確実に色づいて枯れたのを目の端に止めてはっと気づく。
 幹が伸びて電子本を立て掛けていた木が太く枝を伸ばし、それに伴って不安定に立て掛けてた電子本が揺らいで落ちそうになった。
 慌てて身を乗り出して手に取ると、身を乗り出した格好のまま少し頭を下げているルキノの頭を叩いた。
「あたっ」
 ルキノの抜けた声が聞こえて、草木の生長が止まる。寝ぼけて半眼になったルキノの視線がアレッシオ見た。
「びっくりするだろ!」
 大きな欠伸を一つして、ルキノが伸びをした。前屈で眠ってしまった所為で首が痛いのか、左右に首を曲げてならしている。
「お前、さっき、起きたばっかりだろ」
 眠気を帯びた目を擦りながら、こくりと首を頷くルキノの顔をアレッシオは両手で掴んでめいいっぱい引っ張った。口元が引き絞られてくぐもった声で何か言っているが、言葉になっていない。しばらくその顔にさせてから、離すと、頬を抑えながらルキノはアレッシオを恨みがましく睨んだ。
「む……平気だよ、ちょっと眠いだけ……夜寝れなくて」
「いきなり、周りが動くと怖いんだよ……」
 言葉尻がしぼんでいく、自分で言いながら、それはルキノのことを怖いと言ってるのと同じじゃないかと、ふと思ってしまったのだ。言い窄んだ言葉の代わりに目を向けると、微妙な顔でルキノはアレッシオを見つめていて、アレッシオは思わず目をそらした。
「ごめん」
 ルキノはぼそりと視線を手近にあった幹を撫でながら小さく感情の抑揚のない声で呟いた。アレッシオは何も言えず、ルキノが撫でる幹を、自分を睨む代わりに睨み付けた。
「あれかな、うたた寝しそうになってるところで、目を開ければ見られるかな、自分の周りが育つところ」
 泣きそうな顔を、力いっぱい破顔させて、ルキノはアレッシオの方を振り向いた。針の様な物を胸の内に感じながらも、無茶な提案をしているルキノにアレッシオはふっと顔が緩むのが解った。
 手にしていた腕時計が、日没を知らせる小さなアラームを鳴らして、アレッシオは帰宅することにした。日没が過ぎてしまうと、居住区に入れなくなってしまう。外出申請の窓口が閉まってしまうからだ。帰るというと食事を取りに施設によるルキノが一緒にと言ったので、アレッシオは暗くなりつつある森の地面を二人で踏みしめた。
 柔らかな感触の草は丈が短く、少し水を含んでいるのか湿気った匂いに草の匂いが混じって不思議な匂いをさせていた。無風に近い管理された居住区とは違う、心地よさ。
 数十年前はどんな人間も、老人達やルキノと同じように囲われることなく木々のある暮らしをしていたらしい。医療地区の大半がそうやって暮らしていた時代に生きていた人たちである。
 最初の頃、ルキノに会いに行く途中で出会う老人達から、昔の話を聞いたことがある。生まれた時からドームにいるアレッシオにはその話はまったく現実味は湧かなかった。だけれど、ルキノに会いに行くようになってから、遮られない太陽やそれを浴びて育つ草木の匂いを、身体のどこかで心地よさいと思い、当たり前だと感じる自分がいるのに気づいた。
 そして、目が覚めるたびにそれに囲まれているルキノをどこか羨ましいと思いながら、同じような体質になりたくはないと思う自分がいる。同時に、そんな気持ちを持っている自分が惨めで、嫌でたまらない。
 また明日な! と強く言うルキノに生返事を返して、アレッシオは森をあとにした。振り向いた先にいたルキノは普段通りに笑っていたが、手を振ったあとに少し寂しげに胸を押さえてるのをみて、なんだか不安に駆られた。

 保護区からの帰宅は、幾度通っても慣れないルートだった。土、枝一本の侵入も残してはならない処置で、幾度も滅菌室を通らなければならなくてかなり時間がかかる。やっと入れたドームの中は暑くも寒くもなかった。アレッシオには違和感を抱く。真っ平らな舗装された歩道を通り、自宅に帰ると、母親は既に帰宅済だった。
「お帰り、ずいぶん遅いのね」
 声を掛けられて、顔を上げる。パソコンに向かったまま、手元とモニタに顔ごと視線を動かしながらの言葉に、アレッシオは少し顔をしかめた。こちらの顔を見ようとしていないのがただ単に気にくわなかっただけである。
「ルキノのところに行ってたから」
 小さく行った言葉に、母親の手はぴたりと止まった。顔もモニタの方を向いたまままるで違うところを望むように、遠くを見るような視線が一瞬揺らぐ。
「……そう、元気だった?」
 遠慮がちに、小さな声で伺う言葉だった。アレッシオは小さく肯定するとカバンを置いて近くにあったテーブルの椅子に座った。母親は察したように立ち上がり台所へ消えていく。キッチンカウンターに遮られて、姿は見えず音だけがしばらくしていた。
「気になるなら、見に行けばいいじゃないか」
 ぼそりと小さく呟いていた時、ちょうど母親は皿を持って、テーブルに置いたところだった。温められたおかずから緩い湯気が立ち上がっている。アレッシオはただそれを見つめる。
「……そうよね」
 正面に座った母親は小さな声でアレッシオのぼやきに答えた。両親はルキノのことになると口を噤む。嫌ってはいないようで様子は聞くが、それ以上のことはしない。彼が外へ出されてから、両親は一度も、彼に会いに行っていない。
「ごめんね」
 突然謝られて、アレッシオは一層顔をしかめた。何に対しての謝罪なのか分からなかった。差し出された皿の上の食べ物を頬張ってかみ砕く。アレッシオは解っている。母親は、ルキノのことを一番心配している。逐一、診療地区の医療チームに連絡を入れているのも知っている。そこまでして何で面と向かって会ってやれないのかそこがわからない。
「アレッシオ、あなたがいてくれて助かるのよ」
「別に会いに行きたいから、会いに行っているだけだよ。義務のつもりはない」
 母親は少し怪訝な顔をしながらも、ゆっくりとアレッシオの言葉に反応する。
「あの子のこと、分かってあげたいの……でも、どうしてもダメなのよ」
 俯いて髪を掻き回す手は小さく震えている。母親が一番初めにルキノの特殊な体質に気づいたというのは聞いていた。初めてそれを目撃してしまった母親の心中は双子の自分とは違うのかも知れない。自分はルキノに近しい。歳も同じだし、何しろ双子である。
「何であの子なの……」
 アレッシオは思わず音を立ててスプーンをさらに落とした。俯いていた母親ははっと顔を上げてアレッシオを見つめる。その目が思いの外、鋭くて少しだけ怯んだ。誤魔化すように食事を続けようとスプーンを持ち上げたが、口に運ぶことが出来なかった。代わりに、ゆっくりと言葉をはき出す。
「……でも、あの体質を含めてルキノなんだ。怖いだけで否定は出来ない」
「……そうね」
 沈黙は緩く、長く続いた。アレッシオはそれ以上言葉を続けず、代わりに食事を進め、食べているものは植物なのに、それが生長していく過程はルキノの周りでしか見たことがないなとぼんやりと気づいた。
 黙ったまま食事が終わり、アレッシオは居心地が悪くなって、食器を片づけた流れのまま自室に行こうとした。味わって食べなかった食事はただかみ砕くだけで、味などしなかった。片づけの時、皿の中を覗いてやっと自分が好きだったシチューだったことに気づいたぐらいだった。自室へ向かう扉へ立った時、母親も席を立ちパソコンの方へ移動していた。
 座りがけの体勢のまま、母親はアレッシオの顔を見ることなく呟いた。
「ルキノのことお願いね」
 解ったという肯定の言葉は出てこなかった。アレッシオは何も言わず、そのまま逃げるように自室へ籠もった。アレッシオ一人では持てあまし気味の部屋だった。入ってすぐ左右の壁に二つのベッド、奥に並ぶように設えた勉強用のパソコンテーブルがある。何となく、アレッシオは片側半分以外使う心地がしなくて、右と左でまるで様相が違う。左側はブラインドを含めて与えられた当時のまま、白で統一されていた。寝具もそのまま乱れはない。掃除だけはされているので、ほこりっぽい感じがしないのが妙な寂しさを感じさせた。
 いずれのことを考えてだろう。そうやって造られた部屋だが、ルキノは一度も見たことはない。使うどころか見ることすらなく彼は管理地区から出されてしまった。それでも改装もせず、こうやって残しているのは、少なからず両親達もルキノのことを気にかけていると言うことに違いなかった。
 普段だったら、自分のベッドに腰掛けるところ、アレッシオはルキノのベッドに腰掛けた。使われたことのないベッドは軋むことなくアレッシオを受け止める。
 新品のベッドの上にかかっている毛布だけは時折掃除するために洗われていて使われていないのに妙に手触りは優しくて違和感を抱く。アレッシオは弄ったことはない。ルキノのものには一切手を出すことはしていない。となると、これを洗うようにしているのは母親だろうと察した。アレッシオは歯痒くて仕方がない。たぶん、自分の立場では一生解らないことなのかも知れない。
 ため息を一つついて、アレッシオは腰を下ろしたルキノのベッドにそのまま横たわった。洗い晒しのシーツは肌には心地が良いが、顔を寄せても人の匂いはしない。当たり前だが、ひどく胸が痛む。やり残したままの課題に手を付ける気分ではなく、横たわったまま仰向けに身体を変えた。
 ルキノ自身はあまり両親に関しての話題を出さない。話題を振ると複雑な顔をするので、アレッシオからは踏み込めない所為もある。だから、彼が描いている両親という物を知らない。嫌っているのか、好いているのかそれすら理片に見せないのだ。仰向けから自分の部屋という領域を望めるように横に顔を向ける。乱雑な半分は、見慣れたものばかりで放ったカバンがベッドからずり落ち掛けている。ルキノに見せた植物図鑑の電子本がカバンの入り口からはみ出ていた。何となく、立ち上がって手に取るとルキノのベッドの上で再生させた。
 ホログラフィは簡素で、白い壁をスクリーンにルキノが見ている時よりもより鮮明に見えた。スライドショーのまま、白い花が移り変わっていく。三十秒ほどの切り替わりが待ちきれずに、アレッシオは電子本を持ち上げ、乱暴にページめくりのボタンを押した。
 白い花、それが終わると目次欄通りなのか知りもしない木々や草花が、一瞬だけうつって切り替わった。機械の操作は出来ない癖にホログラフィは楽しそうだったのを思い出す。
 順繰りに流れるホログラフィをぼんやりと眺めて、アレッシオは電子本を閉じることなく放った。軽い音がして、頭上に落ちる。目線だけそちらに向けると相変わらずホログラフィは順繰りに植物を映していて、衝撃にダメージを受けているような感じはしなかった。そのままにして、目をつぶる。何となく、今日見た麦の生長を思い出し、ありもしない草の匂いを鼻孔に感じた。

 アラームがいつもより遠くから聞こえて意識の中で疑問を感じてからアレッシオは寝ていたことに気がついた。ルキノの頭上でスイッチを入れたままの電子本がスライドショーをずっと続けていたらしい。いまだに起動していた。それを止め、重い身体をゆっくり起こして、アラームの鳴り響く時計を止める。時間は八時半ばを過ぎていて、相当アラームは長い時間鳴っていたらしい。今から用意しても一限に間に合う時刻ではなかった。
 アレッシオはため息をついて自分のベッドへ腰を下ろした。行く気がせず、そのまま後ろに倒れる。昨日放ってあったままのカバンがその反動で中身をはき出しながら落ちていった。耳障りな音で舌打ちをして立ち上がると、落としたものをそれぞれ拾ってカバンに詰める。
 拾いきってから、何となくルキノのことを思い出した。伸びきった髪を切ってやる約束が会ったのだ。アレッシオは立ち上がると、デスクの上を漁ってはさみを一つ取り出すとカバンに入れた。
 身支度をして自室から出ても誰もいなかった。アレッシオはそのまま学校へは行かず、ルキノのいる外へ向かう通路を歩いていた。舗装され滅菌されている空気は匂いらしきものはせず、簡素で道幅が狭い所為もあるだろうが息苦しい。呼吸が浅くなってしまうのを意識して深くしながら、アレッシオはゆっくりと外へ出る自動ドアが音を立てて開くのを待った。
 ドアが開いて最初、入ってくるのは光だ。人工灯の白々しい温度のない光ではなく、暑く、一瞬にして汗ばむ強い光は白ではなく黄色みを帯びた色をしている。じっくり見ることは出来ないが、その暖かさにじんわりと肌の毛穴が開くような胸の内にあるものを目覚めさせるような感触を受ける。次に入ってくるのは風、強すぎず冷たすぎず、水を含んだ草の匂いを最後の数歩分だけ流し込んでくる。アレッシオはその最初の空気を思い切り吸って、太陽の光に興奮した身体を沈める。自然は良くできている。興奮と沈静と、どちらも持ったものが順番ずつ自分を覆うのがそう感じて仕方がない。ずっとドームの中で生きていたらこの自然である自分を感じることは出来なかっただろう。嬉しい反面、それを毎日感じてるルキノに小さな嫉妬を感じた。
 数歩進んで、ドームの端から逃げるように出ると、そこは一面が緑に覆われている。施設まで歩いて数分。この時間帯なら、ルキノはそこにいるだろうと手にした腕時計で確認してから、アレッシオは歩き出した。
 施設では自由時間なのか、幾人かの老人が外でそれぞれ過ごしていた。基本的には元気な人間が多いので、個々で自適に過ごしている。ほのぼのとした空間は居住区とさして変わらない。
 いくつか立てられている居住施設にある庭先の一つ、草の中に据えられた手製の机で、呻いてるルキノを見つけた。机に向かって毒付きながら、ペンを動かしてはいるが、何か書いてるわけではないらしい。午前中は勉強と言われているから、おそらく与えられた課題なのだろう。見る限りの様子では、苦戦を強いられている様だった。
 アレッシオは少し考えてから声を掛けずに、仕切られた庭に立ち入って彼に近寄った。俯いて据えられた紙を睨むように見つめているので、アレッシオには気づかない。覗ける限り近づいて、問題を見てみるとそれは、数学の問題のようだった。
「わかんないよ!」
 勢いよく顔を上げて、ペンを放り投げた時、やっとルキノはアレッシオに気づいて目を丸くした。
「え?」
その様子があまりにも可笑しかったので、アレッシオは笑いを堪えきれなくて声を上げて笑ってしまった。しばらく笑い転げるアレッシオを事態が飲み込めなかったのか、ルキノはしばらく問題を放棄したままの姿で硬直していた。
「なんで?」
 ぽかんとしたままルキノは小さくそう言って、慌てて居住まいを正した。相当、投げ出した姿が自分なりに恥ずかしかった様で顔を真っ赤にして俯いているのが、アレッシオの笑いのツボをさらに刺激する。同じ歳なのにこういうところは年下のようにも思えて多少なりとも時間の差というか意識の差が感じられる。
「……見てた?」
「見てた」
 俯いたまま、ルキノがアレッシオに問いかける。アレッシオは笑いを抑えて、ルキノの言葉に小さく同意した。よほど恥ずかしかったのか簡素な机の下で、足が泳いでいる。アレッシオは彼が放り投げたペンを拾うと、彼の手に差し出す。ルキノは顔を上げず手だけを差し出してきて、それを受け取った。
「……んだよー、居たら居るって言ってくれればいいのに」
「いや、邪魔しちゃいけないかなって……勉強中だろ?」
「わかんないから嫌だよもー、ずーっとこの難度で止まってるんだ。意味、わかんないし」
 アレッシオはぶつくさ言うルキノに手を差し出して、動作だけで問題を見せるように仕草をした。すぐにルキノは項垂れながら無造作に大きめの紙に印刷された問題を渡してくる。じっくり眺めてその難易度を測る。少し意地悪な傾向の問題だったが、解けないほどの難易度ではない。問題文が読めるように向きを変えてルキノに返した。相変わらずルキノは俯いたままで、こんなの解けなくったってとぶつくさ文句を言っていた。
「アルは解る?」
「まあね。一応学生だし」
 目を輝かせて、ルキノが顔を上げた。言わんとしてることは察せる。自分の代わりに解いて欲しいのだろう。だが、アレッシオはそんなにルキノを甘やかす気にはなれなかった。
「解き方は教えてやるよ」
「む……どうせなら解いてよ」
 ふくれ面で不満を言うルキノに、少し甘くなりそうなところをあえて堪えて、だったら手伝わない。と言うとルキノはしばらく、問題用紙とアレッシオの顔を見比べながら、考えていた。しばらくその様子を笑うのを堪えながら見つめていると、どこか妥協したらしい、小さな声で教えて。と呟いたのでアレッシオは吹き出しそうになった。傍らから少し、笑い声が聞こえる。周りにいた人たちが二人のやりとりを見て笑っているのだ。面白いねぇと言われているのは少々恥ずかしいが、違う人が仲が良いねと小さく呟いたのが聞こえたのが、少しだけ嬉しかった。
 ルキノは丁寧に教えていくと、簡単に理解した。ただ、基本の方までものを説明しなければならないので一問一問に事細かな説明が必要で、どうしても時間がかかった。
「わー、やった! 終わった!」
 家庭教師代わりのだいぶ経って二人で解いた問題を医員が、苦笑しながら丸を付けてくれ、ルキノは大きな伸びをした。本当はダメだけどね。と医員が小さく呟くが、スケジュール以上の時間を使って勉強したから、ご褒美。と付け足しで言ってくれたのがアレッシオの苦労を認めてもらった様な気がしてホッとした。

 少しだけずれ込んだお昼をすませ、アレッシオとルキノは医療施設から離れ、ルキノの寝泊まりしている小屋の方へと歩いてきた。昼時の自然光は熱を帯びていて、アレッシオは汗が流れる。これだけ暑いとは思わなかったアレッシオは、長袖の裾で首の下に垂れ流れる汗を拭った。
「あちー」
「昼時になると、すごい温度が高くなるんだよ」
 ルキノの方はさすがに慣れているらしい、汗こそ出ているがアレッシオの様な滝の汗ではない。なんだか午前中の時と立場が変わったようで、なんだか負けた気分になってしまう。だが、長袖のアレッシオと、涼しげな半袖のルキノでは、服装からしてアレッシオの方が環境に合っていない。暑くて当然の格好だ。
「いつもこんな感じだっけ」
「今日はちょっと暑いかな」
 そう言ってルキノは襟足にかかる髪を掻き上げて、掻き上げたまま首筋に手を当てて髪が触れないように掻き上げながら抑えている。よっぽど邪魔らしい、舌打ちをしている。ふっと気が緩んだアレッシオは、少し足を速めてルキノに追いつくと、頭を撫でてやる。突然後ろから、髪をかき混ぜられてルキノが驚いたように、アレッシオをみた。
「もう少しだろ。すぐ切ってやるよ」
 その言葉に、ルキノが照れくさそうに笑うと、小走りになって、先へと進んでいった。
 葉の茂った大きな木の群衆の下は冷たい空気で満たされていて、日当たりのある場所とは別世界のようだった。その日陰へ入っていくと、すっと冷たくて、逆に寒くて、アレッシオは身震いした。
「気持ちいい~」
 ルキノは大きく伸びをして、大きく髪を掻き上げた。冷たい空気を量の多い髪に取り入れているのか数回掻き上げて、最後には首筋をぼりぼりと掻いていた。冷たい空気をアレッシオも少し吸って、汗ばんだ額を拭ってみる。拭いた先に冷たい風が当たって、一気に肌が冷えた。
「ずいぶん、温度差があるんだな」
 空を見上げてみても、そこにあるのは幹に厚く覆い繁る葉が見えるだけで、先ほどまで眩しいほど照り返していた太陽はどこかへ行ってしまったかのように見える。ざっという音とともに、その葉が大きく揺れると、やっと葉の隙間から煌めく太陽の欠片が視界に入って、目を細めた。一つ一つが一瞬ずつ動いている姿に、アレッシオは少し圧倒された。
「おーい。もうちょっと奥まで行こう」
 声を掛けられてはっとする。アレッシオが、我に返って声のする方を向くと、だいぶ遠くでルキノがこちらを待っていた。慌てて追いかける。幾度か太い幹に躓きそうになってしまい、そのたび、大きな声でルキノが声を掛けてくるので、少しだけ恥ずかしかった。
「どこまで、行くんだよ……」
「もうちょっと」
 息を上げながら、ルキノに追いついたアレッシオに、前を向いたまま、言ってルキノは足を進めていく。明確に言わないルキノに小さく呆れながらも、置いて行かれまいとして、アレッシオは慌ててあとを追いかける。舗装された道路に慣れているアレッシオには根が埋まっていてなだらかではない、森の地面は歩きづらい。スニーカーを履いているが、素足のルキノに追いつけなくて、逆に焦ってしまった。
 やがてたどり着いたのは少しばかり開けた場所で、川が流れていた。さらさらと立てて流れる川はこぢんまりとしていて、周りにシダが覆い繁り、音がしなければ見失いそうなほど小さかった。
 覗き込むと水の底は透けて見え、大小様々な石には、緑色のコケが水の流れに沿ってたゆたっていた。日当たりは、歩いてきたところよりも木々の茂みが薄いのか、木漏れ日がそこここに点在していて、まるでスポットライトのように地面を照らしている。草を踏みならして、川縁にルキノは座り込み素足の足をそのまま底の浅い川に入れた。相当冷たいのか、目をつぶって、冷たい。と言って苦笑している。アレッシオはそれを見てカバンを背負い直すと、ルキノの後ろに座った。ルキノが、足をつっこんだ川の水面を少し掬って手を濡らす。濡らした手で髪を撫でて湿らせて髪を整えて、着ていたシャツを脱いだ。
「脱がなくたっていいだろ」
「だって服に入るとくすぐったいもん」
 そう言って脱いだシャツを丸めて、傍らに置いた。畳まないのか、とアレッシオは丸められたシャツを見るが、まあいいやとため息をつく。身を揺らして、楽しげに、用意をしたルキノを見て、アレッシオはカバンから、はさみを取り出した。髪を切るためのはさみではなく、文房具のはさみで、刃はそんなに鋭くはない。
「絶対、身を切るなよ~」
 忠告されたものの、プロではない上に、心得すらも知らないので、ルキノの言葉に完璧に運とは肯けず、気をつける。とだけ、呟いてアレッシオはルキノの真後ろに座り直した。
 アレッシオは、木漏れ日にキラキラと輝く髪をとりあえず撫でてから、一体どこから切ればいいのか見当がつかず呻いていた。毛先からか頂点からにすべきか、むしろサイドなのか、と呻いてると、身体を揺らしてルキノがせっついた。
 結局、覚悟を決めてやりやすいところから切り出す。ざっくりとした感覚と一緒にはらはらと金の髪が背中に落ちる。何となくもったいない気がする。
 髪型を考えて切ってやることが出来ず、適当に、ざくざく髪をまとめて切っていく。変にならないように縦にはさみを入れたりして、なんとか体裁だけは整えられるように気をつける。
 右を切っては、左を合わせる為に切ってと繰り返すことが多くなって、熱中しながら、切り続けていた。緑の草の上に覆うように金糸のような髪の残骸がまるで昨日、ルキノの部屋で生えそろっていた麦を連想させる。
 切りすぎて、後々で文句が出ても怖いので適当に切り上げようと、はさみを止めた、自然と視線が髪の落ちている草原へ落ちる。ふとルキノの身体が前のめりに傾いだと思ったら、足下の切った金の髪に混じった草が震えるように動いた。風とは違う揺れ動き方にはっとする。
「ルキノ」
 浅い眠りだったのか、小さく呟いたアレッシオの言葉に、ルキノは肩を震わせて顔を上げた。落ち損ねていた髪がぱらぱらと落ちる。
「大丈夫か?」
 ぼんやりとしているのか、それ以上の動きをしないルキノに不安を抱いて、アレッシオは様子を窺うように、ルキノを覗き込んだ。ぼんやりした目で、揺らめいて、光を反射する水が唯一似ている藍色の瞳にキラキラと水面が光っていた。
「ん……」
 胡乱な声がもごもごと聞こえて、手が少しだけ上がった。起きてはいるようだが、完全ではないらしい。アレッシオは仕方がないので背中を叩いて、気づかせるとはさみを置いた。
「終わったよ」
「んん……ありがと」
 大きな音を立てて水に差しいれていた足を動かしてからルキノは伸びをして目をしっかりと開けた。唐突に足を動かしたので水が跳ね上がって、覗き込んでいたアレッシオの顔に、冷たい水が掛かって驚く。身を引いて、掛かった水を上着で拭いながら、水面を鏡代わりにして確認しているルキノの背中を睨んだ。
「さっぱりした」
「ちょっと切りすぎたか?」
「いいって、しょっちゅう切るよりましだもん」
 頭を掻いて、髪の毛を払うと、ルキノはその手でアレッシオの方を手招きした。手に招かれるまま川面を二人で覗き込む。二つの顔が揺らめいて水面に映っている。川の流れで少し歪んで見えるその姿は、色合いが相反していて、アレッシオは似てないな。と感じた。けれどルキノの方は逆に感じていたらしい、顔を寄せるようにして、肩を並べると満足げに水面のアレッシオに向かって笑いかけた。
「なぁ、似てない?」
「え?」
 とっさに水面のルキノの真横にいるルキノの顔を見比べてしまった。不思議そうな顔をするアレッシオに、笑いながら俺達。とルキノは、互いを指さして、アレッシオに教える。
「似てないよ」
「なんでさ、髪の色は違うけどさ、ほら、目の色もそうだし、鼻も似てるよ。あと眉とか」
 水面にうつった互いを見比べながら、ルキノは嬉しげに、共通点を上げていく。言われてみて覗いてみるもののアレッシオには似ているようには見えない。整っているのはルキノの方で、自分はそう目立つ造作をしてるようには見えない。
「そうかなぁ……」
 明確に、似ていないと言えずに言葉が濁る。ルキノは嬉しそうに髪を掻き上げて、短くなった髪を抓むようにして太陽に好かしていた。きらきらと彼の袂にルキノの髪の毛が落ちていて、アレッシオはそちらを抓んだ。
「綺麗だよな、ルキノの髪は」
「そうかな、あんまり、好きじゃないよ。どうせなら、黒が良かった」
 丸めたシャツを、着込むとあぐらをかいて横に座っていたアレッシオの足に寝ころんだ。寝ころんだまま、アレッシオの髪を一房抓んで見つめてくる。突然のことで驚いた、アレッシオは反射的に髪を掴んだルキノを覗き込む。藍色の目は木漏れ日に反射して、水面のように煌めいていた。
「そしたら、寂しくなかったかも……」
 強い風が、森の中を通りすがっていく、ちょうどルキノが抓んでいた髪を離したので、ふわりと揺れた。地面についていた左手をズボンで拭ってから、ルキノの頭を撫でた。短く切った髪は、撫でると少し音を立てて、ルキノの額に流れる。目をつぶっていたルキノの顔にアレッシオは目をつぶって顔を寄せた。
「ごめんな」
 ルキノが身じろぎをしたのが、気配で分かる。だが、アレッシオは動かずに目をつぶったまま身動きしない。ルキノがどんな顔をしているのかアレッシオは見たくなかった。
「……一緒にいてやれなくてごめん」
 ルキノの身体が強ばった。俯いたままのアレッシオの顔に、風に揺らめいたルキノの髪が少し触れた。くすぐったい様な、柔らかな髪は、日差しの匂いがする。互いに身動きをしないで、黙っていた。風と葉擦れの音が、静かな二人を包んでいた。
 先に動いたのはルキノだった。寝ころんだまま、アレッシオの右手を握り込む。温かく、少し節くれ立った手だった。
「……アルが謝ることじゃないよ」
「でも……」
 川のせせらぎが、自分を責めてるように感じる。もう一度口からごめんと声が出そうだった。だが、その前にルキノが動く気配がして、アレッシオは口を開けたまま、動きを止めた。
「……誰も謝る必要はないんだ」
 ゆっくりとそして静かな言い聞かせるような声だった。その口調にアレッシオはさらに何も言えなくなった。めいいっぱい目をつぶって、俯いていることしか出来なかった。
「……寂しいけど、俺、自分を不幸だと思ってないよ」
 アレッシオはただ、握られた自分の手で、ルキノの手を握り返した。また、ごめんと呟いてしまいそうだった。アレッシオはただ苦しい胸の内を、ただ、手に力を込めることで堪える。
「アル、手、痛いよ」
 苦笑混じりの声がして、ふっと顔を上げた。つぶっていた目を思わず開けてしまっていたが、目線の先にいたのは、いつものように、笑った顔のルキノがいた。目があって、やっと、アレッシオの肩から力が抜けた。持ち上げて握りしめていた、手の力を緩める。
「ああ……」
 慌てて握りしめていた手を離そうとした。だが、逆にルキノは離すつもりはなかったらしい。そのままゆっくりと、持ち上げていた手を、握ったまま草の上に落とす。少し伸びていた草が手の甲に当たって、少しくすぐったい。顔をしかめていると、ルキノがアレッシオの足に乗せていた頭を動かした。
「足、痛くない?」
「ん? 平気だよ」
 ルキノが頭を少し浮かせたので、その隙にアレッシオは足を少し動かして、ほぐしておく。そうたいして、痺れていたり痛みを感じたりしなかったので笑って見せた。そのまま頭をどかすのかと思っていたが、ルキノはもう一度頭をアレッシオの足の上に乗せる。ついでに大きな欠伸をして、眠そうに目を擦った。
「なぁ、このまま少し、寝ていい?」
 見上げるようにルキノはアレッシオの顔を覗き込んで、恥ずかしそうに、声を掛けた。その表情が妙に子供っぽくて、アレッシオは笑いそうになってしまう。悪いと思って慌てて、顔をそらすが、ルキノは察して、顔を赤くした。ふくれ面をして、そのまま顔をアレッシオの足下へ身体ごと向きを変える。
「子供みたいだぞ」
「いいじゃんか」
 結局、ルキノはそのまま少しうずくまって身体を小さくする。退く気はないらしく、ため息をつく間に少しだけ、乗せられた頭の重みが増して眠りに入ったのが解った。ざわざわと彼の背中の下で敷かれた草が身じろぎをして、背を伸ばし始めた。小さな花を咲かせ、種を生み地に落として枯れる。彼の周りだけがめまぐるしく時を重ねていくのを見るのが嫌で、アレッシオは、自分も仰向けに倒れた。草は柔らかく、少し湿気を帯びているのか冷たい。日差しの木漏れ日を眺めながら、自然の温度差に心地よさを感じる。過ごしやすくはない。けれど、管理されきっていて、暑くも、寒くもない空気よりは数段面白さを感じる。
 目をつぶると、地面の音なのか、足下の方で寝ているルキノの周りで育っている草木の音なのか、ざわざわと植物と土が生きている音がした。

 微睡んだつもりだった。はっと目を開けると、そこは光の差さない暗闇で、自分は一瞬目を開けているのか疑ってしまった。目が慣れてやっと葉の間にある小さな星の光を見つけ、慌てて起きあがると腕時計を見る。暗い中ぼんやりと光る蛍光塗料で表された数字は、閉門時刻を一時間も超えていた。
「わあ!」
 思わず大声を上げて、身体を起こした。足を持ち上げてその反動で起きあがったので、眠っていたルキノの頭がしたたかに地面に落ちた。草に埋もれていて、そう痛くなかったのか、ルキノはぼんやりとしたまま身体を起こして、アレッシオの方を見つめた。
「ん……どした」
 最後の方で大きな欠伸をして、言葉が続かない。アレッシオの方は焦って時計の方ばかり見つめてしまった。見つめたところで時計は時間を戻してはくれない。
「ゲートの閉門時間が過ぎちゃったんだよ……しまった」
 ぽかんとして、ぼさついた髪を撫でてアレッシオの方を見た。よく分かってないのかと思ってみたが、なんだか楽しそうな笑い声が暗闇に聞こえてきた。
「じゃ、まだいるってこと?」
「いるしかないって言うか……」
 そういうと、さらに笑い声は含むようになっていく。相当嬉しいのが解って、アレッシオは少し呆れて苦笑した。立ち上がる気配がして、アレッシオの手を、ルキノがひいた。慌てて地面に落としたままだったはさみを手に取ると、カバンを探して放り込んで、手を引かれるまま、立ち上がった。
「小屋まで戻ろう」
「暗くて見えないよ」
「俺が見えるし、大丈夫、ここを抜ければ月が出てるはずだよ」
 そう言って、歩き出す気配を感じて、アレッシオは手を引かれるまま、見えない地面を踏みしめた。空気は全体的に冷たくなっていて、水気を帯びている。シャツだけでは肌寒い感じが、昼間の温度との差を激しく感じ、こんなにまで違うんだと痛感した。
 すっと光を感じて、アレッシオは顔を上げた。来た道を戻ってきたのか、何となく、見覚えのある開けた場所にたどり着いていた。木々が無くなっただけで、森の中よりも数段明るくなって、アレッシオは驚いた。水を含んだ草を映すように、空は星に包まれている。空の中で一際大きな月がぼんやりと、大きな光の輪を空に広げていた。ドームの中では空ははっきりと見ることが出来ない。日差しを塞ぎ、ドームの屋根は月は見えても、光の弱い星は映さない。紺色一色の布のような代わり映えの空を、アレッシオは立ち並ぶビルの合間からしか覗いたことがなかった。
 感嘆の声は出ず、代わりにアレッシオは空を見上げたまま、深いため息をついた。足が自然に止まっていたらしい、手を強く引かれて、やっとアレッシオは自分の足が止まっているのに気づいた。
「アル? 平気?」
「あ、ごめん、すごいな……外の空ってこんなに綺麗なんだ」
「ふうん」
 アレッシオの言葉にルキノは気のない返事を返してきた。見慣れているのだろう、空を仰いで静かに目をこらしている。
「中って、どういう空?」
「ドームの屋根とかもあるし、街灯とかずっとついてたりするし、こんな風に星は見えない。その所為かな、空の色もこう、濃いところとか薄いところとか、そんないろんな色はしていないんだ」
「へぇ、中って夜でも明るいのか……」
 ルキノが少し遠い目をして空を仰いでから、アレッシオの顔を伺って、ゆっくりと手を引いて歩き出した。アレッシオもそれに従って歩を進める。
 森の中の夜は、にぎやかなものだった。鈴の音のような音や、ヴァイオリンかなにかを引いているような音がして、ふと不思議に感じる。
「なぁ、この音って、虫?」
「そうだよ。なに、アルは虫が苦手だったの?」
 どうやらアレッシオの声はうわずってしまっていたらしい、アルの答えは少し意外そうな声音を含んでいた。
「う……」
「中にだっているだろう?」
「いるけど滅多に合わないよ」
 ルキノにとって、アレッシオの虫を嫌う気持ちは分からないらしい。きょとんとしたまま、アレッシオの方を不思議そうな顔で見つめている。彼にとって羽音も虫の形も、自然にある物で気にする物ではないのだ。
「何が、嫌?」
「飛んでくるのが嫌なんだよ……音とか」
「……この音は?」
 ルキノはアレッシオを覗き込む。ばつが悪くてアレッシオは目をそらすが、追いかけて覗き込んでくるルキノに観念して、ため息をついた。あまり聞き慣れない音に改めて耳を傾ける。鈴のような音色、弦を擦るような音、それに応じるように風の吹き抜ける音がして、葉擦れの音がさらに重なり合う。人の作った音楽とは違う、リズムも旋律も無いはずなのに、そのいくつもの音は重なり合い、一つの曲のようにまとまって聞こえてくる。
「綺麗だろ」
「まあね……」
 何となく認めたくなくて、言葉を濁す。確か、虫が音を出すのは、羽や足を擦り合わせたりして出すはずだ。そんなことを考えると、ホログラフィで見た巨大な虫の姿を思い出して、慌てて頭を振った。
「……ちょっとした深い茂みに潜んでるんだよね」
 その様子を見ていたのか、ルキノが明らかに面白がって近くにあったかなり深い草の茂みを蹴散らして音を立てた。アレッシオの目の前を小さな影が飛び出して跳ねていくのを目の当たりして、声を上げて身を引く。ルキノの肩を掴んで後ろに身じろぐアレッシオの慌てた様子を見て、ルキノが腹を抱えて笑っていた。恥ずかしくて、アレッシオは押し黙ってルキノの笑いが収まるまでまっていた。が、いつまでたっても笑い続けている。
「……ぴょんって今跳ねた! 虫みたいっ! ははっ」
「う……うるさいな……」
 涙を溜めて笑い転げるルキノにいたたまれない気分になってアレッシオは小さく呟く、だがそれがさらに笑いのツボを押さえたのか、ルキノはますます声を上げて笑った。ひとしきり声を上げて、やっと笑いが収まったのか、ルキノが涙を拭きながら、落ち着こうとしてなんとかアレッシオの機嫌を伺ってきた。
「ご、ごめん」
 その顔は笑いすぎて、目に涙を溜めて、非常に緩んでいた。それがまた、自分の大いに慌てた恥ずかしい姿を思い出させて、口が真一文字から、への字へ歪んでいくまだ笑い顔のルキノを追い越し、先に歩いて落ち着こうと深呼吸をした。冷たい空気が熱くなった頬を撫で、その空気を肺に吸い込むと、すっと火照った胸の内も冷やされる感じがした。ゆっくりと吸い込んでゆっくりと息を吐く。ちょっとだけまだざわつく感情を、彼の髪を掻き回すことで落ち着かせる。
「アル」
 後ろから声を掛けられ、ゆっくり振り向くとルキノが少し寂しげに近づいてきた。伺うように顔を覗かれて気恥ずかしいアレッシオは顔をそる。もう一度小さくルキノが名前を呼ぶが、アレッシオは顔をそらしたまま振り返らない。
「なぁ、悪かったよ」
 ルキノが遠慮しがちに、声を掛けてくる。その声は震えていて、アレッシオを怒らせたのだろうと内心が声に込められているのを聞いて、アレッシオはふっと笑いが込み上げてきてしまった。必死なところを笑ってしまってはひどいと声を上げずになんとか堪える。
「アル?」
 肩を震わせたので、泣いたのと勘違いしたらしい必死になって、ルキノが覗き込んできた。慌てて、身体をひねって、顔を見られないようにするが、追いすがるルキノに耐えられなくなって、今度はアレッシオが声を上げて笑ってしまった。それを見てぽかんと口を開けるルキノがますます可笑しくて、アレッシオは身体を折って笑い転げた。一瞬、ムッとするルキノを見て、しまったと、アレッシオは思うだが、ルキノはそのままつられるように顔から力を抜くと微笑み、やがて一緒になって笑った。
 顔を突き合わせ、額を互いに寄せて顔を突き合わせて笑い合い、虫が啼いていることを忘れて、地面に座り込んだ。ひとしきり笑い終え、大きく息を吸うと目の端から涙がこぼれる。それを互いに指で拭い合うと、ルキノが立ち上がって行こうと促した。ゆっくりと微笑むルキノにつられて微笑みながら差し出された手を取った。

 小屋は入るなと言われたので小屋のある木の根の間で夜を明かすことになった。上を見れば、家の形の影から四方に枝が伸びていて、寝れる様な状況ではないのが計り知れた。虫に怯えるアレッシオに、ルキノは医員の人からもらったという小さな香に火を付けて草を少し毟った傍らに置いた。一枚のシーツに寄り添うように並んで包まると、冷たい風は遮られ、互いの体温でシーツは温まっていく。その感触にアレッシオは目を瞑って少し微睡んでいた。運動らしいことをしない自分に森の散策は堪えたらしい。お香の不思議な匂いが、鼻をくすぐり、煙は空に舞って間もなく解けていく。ぼんやりとそれを眺めていると、無言だったルキノが身じろぎした。
「なぁ、夜、怖くないか?」
 たわいもない話題だと思った。子供じみた内容だったので、ふっと顔が緩むが、ルキノの月明かりにうつる顔が少し不安げで不安定に見えたので、アレッシオは笑みを堪えてルキノを見据えた。
「怖くはないよ」
 安全に囲われた家の中、しっかりとしたベッドに温度管理のされた部屋、スイッチ一つで電気が点けられる部屋の中で怖い物など存在しない。淡々とした寝る時間であり、暗いということすら中では忘れられがちだった。
「……ここは暗いから怖くても仕方がないだろう」
 シーツの下で、少し肩が手が、震えている様な気がして、傍らの手で握ってやると、ルキノははっとしてアレッシオの方を向いて、ホッとしたように眉を下げた。
「……夢を見るんだ」
 小さな声だった。静かに思い出すようにルキノはまっすぐ前を向いている。アレッシオは内容を聞いていいのか、ためらって鯉のように口をパクつかせて終わってしまった。そんな仕草をしたアレッシオを見て、ルキノは苦笑しながら、話を続ける。堪えてた物を吐き出すように、ゆっくりと。
「怖い夢じゃないんだけど。こう、俺の身体が、突然伸びて、手から枝とかにょきっと生えてきて、気持ち悪くはないよむしろ気持ちがいい。空を飛ぶような、唐突に背が伸びていくような感覚が気持ちいいんだよ」
 思い出しているのか、ルキノの目が空に向けられる。アレッシオもその視線を追うようにして、空を見上げた。月が光を帯びて、大きな光の輪を広げてる。あの月に近づくように、自分の視界が動いたらそれは夢でも気持ちよいだろう。
「でも、ふっと下を見ると、アルがいるんだよ。何かすごく悲しそうな顔をしてて……」
 ルキノが黙っただが、口がためらいがちに開いて閉じるところを見ると、まだ言いたいことがあるらしくてアレッシオは割って声を出せなかった。代わりに沈黙の中を虫の音が、甲高い音を立てながら解けていく。
「アルは悲しそうな顔をして俺を見上げてるのに、自分は木になったことが気持ちよくてしょうがないんだよ。アルのことを考えないで空に向かって自分と枝を伸ばして、満足してるんだ」
 ルキノはそこまで言ってため息をついた。たかが夢だと一蹴してしまえば、その話題は、笑い話で終わるのかとも思ったが、ルキノは真剣に夢を捕らえている様だった。見た物にしか解らない部分。もしかしたらそれは恐ろしいほどリアルだったのかも知れない。夢の中のアレッシオになって考えると本当に置いて行かれてしまうようで怖くなってアレッシオは握っていたルキノの手を強く握りしめた。
「アル」
「ルキノそれは夢だよ」
 物言いたげな顔で不安そうなルキノの手を握って、アレッシオは言葉を遮った。痛みに押し黙ったルキノはそれ以上何も言わない。
「そんな夢を見て……目が覚めると周りばっかり時がたってて、置いて行かれるような気持ちになる。一応自分だって身長も伸びてるし、成長してるとは感じてる、けど、目が覚めた時、自分の周りの時間の違いに、なんだか自分の成長するための時間を、周りに吸い取られてる様な気持ちになるんだよ……」
 小さなため息とともにルキノが少し身を起こして居住まいを正した。
「やめろ」
 遮るように言葉を発したアレッシオにルキノは驚いたように顔をこちらに向けた。目を合わせられなくて、アレッシオはルキノから顔を逸らす。ルキノが少し、アレッシオに握られた手に力を入れたが、すぐに力を抜いた。ただ、なにかを察したのか、声を掛けてこなかった。半端になった話に互いに胸に溜まった澱のような暗い気持ちを抱えたまま、シーツを互いに掛け合って肩を寄せ合うとそのまま目を瞑った。歩き疲れていたアレッシオはすぐに身体が眠る体勢になって重くなる。だけれどその横で、ルキノは些細な身じろぎを長い時間、繰り返していた。
 目が覚めてアレッシオはルキノが目の前で伸びをしているのに気づいて、朝を知った。朝の太陽は白く視界を光で覆う。アラームも無いのにしっかりと起きられたのは初めてだった。窓の少ない家では自然光はあまり入ってこないからだ。起きあがって、辺りを見回すが、草木は育った様子がなかった。
「ルキノ、寝たか?」
「寝たよ……少し」
 誤魔化そうとした様だったが、結局、途中で欠伸をして、少し笑って見せた。だが、あまり顔色が良くないのが気に掛かりアレッシオは何となく顔を撫でた。ルキノの肌は冷たかった。
「大丈夫か?」
「ん、平気だよ」
 あまり追求ができず、アレッシオはルキノの顔から手を離した。そのまま腕時計を見るといい時間帯だった。ゲートも開いているだろう。カバンを持ち上げ、それを肩に背負うとルキノが首を傾げていた。
「帰らないと」
「……あ……」
 様子を窺う顔でルキノが声を上げた。だが、時間的にアレッシオは猶予を越えている。誰にも出先を言わずに外に出てきたあげく、一夜を明かしてしまったのだ。学校もサボってしまった引け目もある。
「悪い、ここに来たこと誰にも言ってないんだよ」
 驚いたように目を見開いて、ルキノがアレッシオを見つめたのを、苦笑ながらじゃあと声を掛けると、寂しそうだがルキノは微笑んで、声をかけてきた。
「また来る?」
「来るよ」
 通りすがり際に頭を撫でてやると、ルキノは不安げな顔をホッとさせた。少し青白い顔に乗せた笑顔は無理があって、アレッシオが不安になる。
「今からでもいいから、少し寝ろよ?」
「うん」
 少し強めの返事が返ってきて、少しだけ安心する。カバンを背負い直して、まだ日差しを浴びたばかりの森の中を歩いていく。少しばかり振り向いて、ルキノの姿を見るとアレッシオの方を見つめて立っていた。振り向いたことに気づいて、手を振る。その仕草に唇が緩んで笑いそうになった。
 三度振り向いて三度とも、ルキノは振り向いたアレッシオに気づくたび、手を振った。様子を窺うように、アレッシオが見えなくなるまで、立っているようだった。

 管理業務を行っているゲートの職員はカンカンだった。閉鎖業務を終えようとしたのに、アレッシオが帰宅したチェックがなかったので、相当大事になっていたらしい。医療施設の職員に問い合わせても居所が分からず、ただ長年森に住んでいるルキノと一緒だったことだけが確認されていたのが幸いした。森に詳しいルキノと一緒だろうから、大丈夫だろう。と半ば諦める形でゲートは閉められることになったらしい。
 こってりと叱られたアレッシオは、重い足取りでゲートをくぐった。もう一度閉鎖までに帰らなかったら出入り禁止とまで言い渡されてしまったのだ。気鬱なまま、味気ない道のりを歩いて、家につくと、さらに気鬱な顔が待ち受けていた。
「アレッシオ!」
 予期せぬ声に身体を竦めてびくついた。仕事に出てるだろうと思っていた母親が玄関の前に立っていたのだ。普段、家にいないだけに、その形相もさることながら、アレッシオは驚きを隠せなかった。
「母さん……」
「どこまで行ってたの! 無断で一日中帰ってこなくて! 学校にも行ってなかったようね!」
「ちょ……」
 さんざん怒号を聞いてきたあとの母親の金切り声は、かなり厳しいものだった。とはいえ反論する余地はアレッシオは立場上何にもない。ただその怒号を何でも良いので緩めたかった。
「ルキノのところへ……行って、ゲート閉鎖に間に合わなかったんだよ」
 母親は口を止めた。自分が全体的に悪いことなのに、本当のことだとはいえルキノのことを口に出すのは少し気分が悪かった。まるで、母親を黙らせるために言い訳したような気になってしまう。
「……そう、あなたがルキノのことを心配するのは分かるわ。でも、だからといって……」
「分かってるよ!」
 いけないと分かっていても、母親の語気の荒さに苛ついて、アレッシオはつられるように言葉が強くなる。母親がその言葉に怯んだように見えた時、部屋の奥から通信のアラームが鳴って、話は中断した。
「もういいわ。中へ入りなさい」
 浅いため息をして、目をそらすと母親は部屋の奥にある通信機の元へ小走りに歩いていった。宙ぶらりんな気持ちのまま、アレッシオはため息をついてカバンを力なく提げて、自室へ籠もろうとした。
「アレッシオ……」
 母親の震える声に、眉根を寄せてそちらに振り向く。受話器を持ったまま、立ちつくしてこちらを見ていた。その顔の青さに近づくと軽くふらついて、倒れそうになった。慌てて、手を貸すと、ゆっくりともたれ、震える手で受話器を置いた。
「どうしたの?」
 母親はしゃべらない。置き方が甘かったのか、受話器が音を立てて床に落ち、その音に驚いて身を竦めた。
「何の電話? 父さん?」
 口は開かない。白くなった顔を小さく横に振る。要領を得ない母親に、過烈士尾は苛つく、だが顔色の尋常のなさに先ほどの電話の内容はただごとではないと言うことに不安がよぎる。
「なんなのさ」
「……ルキノ……の」
「別れるまで元気だったよ?」
「様子がおかしいって……よくわからな……」
 母親はそこから先を言えなくなった。不安を煽られるのに埒があかない。アレッシオは聞くよりもルキノのところへ行って事情を聞いた方が早いと、持っていたカバンを放り出し、自動ドアに向かった。
「と、父さんに」
 空気の抜ける開閉音の音に混じって、母親の焦りと不安に満ちた弱々しい母親の声が聞こえた。

 通信は、ゲートの管理職員からの物だったのか、さっきまでたいそう怒っていた職員も、走ってきたアレッシオに戸惑うような視線を投げて来た。怒りはどこかへ押しやって、細かいチェックもせずに、職員はゲートを通してくれた。
 いつもだったら堪能してるはずの森の空気は、満足に吸えるわけもなく、アレッシオは息を上げながら、森の中に足を踏み入れた。そうそう、走る様な機会に恵まれないアレッシオに、気持ちは急いても、体力が追いつかない。頭がくらくらしたところで施設の前にたどり着き、いつもなら、のんびりとしたおのおのの時間を過ごしている老人達が集まり、森の奥を見つめているのを見かけた。
 視線の先を見ると、そこには森だった。ただし朝とまるで様子が違う。風の音だと感じていたのは、木々のざわめきながら育つ音だ。目の前の木が音を立てて背を伸ばし、枝に実を付け見る傍からそれを枯らしていく、地に敷き詰められたような草が、花を咲かせ、風に揺られた瞬間に枯れて種を落とす、その規模はいつもより大きくて、面前のすべてが肥大を伴いながら森を広げていた。ルキノの姿は見えない。だが、森の中にいることは確かだろう。
 アレッシオは、生き物のように蠢く草をかき分けて、奥を目指した。背の高い草をかき分け、時折枝を腕に引っかけるが、気にしている場合ではなかった。草木の育ちで、地形は変わり、ただでさえ森の構図が分からないアレッシオには方向でしか、感覚がつかめない。だが、まっすぐ進めば朝起きた、ルキノの家の前に来るはずだ。
「ルキノ!」
 上がった息で上げられるだけの声を上げてアレッシオは名前を呼んだ。喉は渇いてて上手く声は出ない。その上、音を立てて育つ草木の音はかなり大きな音で、息の上がって掠れた声は森には響かない。かき分けるように進んで、やっと見つけたのは、家の残骸の残る木だった。別れたのはここである。
「ルキノ!」
 息を整えもう一度呼ぶ。草木が育っている以上、寝ているだろうとアレッシオは、立ち止まって余裕の出来た呼吸で、ありったけの声を出した。ついでに草を蹴散らす。
 目の端に捕らえた草の群れの一画が、育ちゆく揺れとは違う揺れ方をしてアレッシオはそちらに注意を向けた。動物かも知れないが、確認しないよりはましだと、かき分けながら進んでいく。腰の位置まで伸び上がった草は黄金色にくすみ枯れながらも横で新しく芽が出ている。周りの生長の速度がいつも以上に早い。それがアレッシオの不安を煽る。
「アル……」
 小さな声が思っていたよりも間近に聞こえて草を分けた。すぐ近くで、ルキノがこちらを見て座っている。顔色は青く、調子が悪そうだ。見つけたとホッとして、ルキノが起きていることに疑問を感じた。
「だ、大丈夫なのか?」
「……アル」
 戸惑っているのはルキノも同じだった。震えた手をなんとか伸ばして裾を引いた。引かれたままに、アレッシオはルキノの目の前に座り込む。ぼんやりとして朝の元気はどこかへ行ってしまっていた。肌が冷たい。屈んだアレッシオの胸に倒れるように項垂れる。身体を震わせてしゃべることが出来ずにいるルキノを抱き留めた。
 周りはまだ背を伸ばし、遠くにある普段だったら何事もない距離の木々すら枝を伸ばしていく。目に見えるすべての植物がめまぐるしく生長していた。アレッシオは身体を丸めてうずくまるルキノに手を置いて、背中を撫でる。震えた背中は汗ばんでいるのに驚くほど冷たい。
「ルキノ、大丈夫か?」
 うずくまったままのルキノの耳元で、なるべく小さな声でアレッシオは声をかけた、ゆっくりと緩慢な動作で顔を上げた表情は、今にも泣き出しそうに歪んでいる。右手で胸を押えているのが気に掛かって、アレッシオは覗き込む。
「胸が苦しいのか?」
 ルキノはしゃべる代わりに青ざめた顔を左右に振った。ただ必死に左手でアレッシオを掴んで離さない。アレッシオはそれを受け止めて、なんとか彼を安心させようとする。
「ルキノ」
「……こんなに怖いんだ」
「ルキノ?」
 虚ろな目でぼんやりとルキノが小さく呟いた。青白い顔をほとんど泣いてる様な顔に歪めているのがアレッシオの胸の内をざわめかせる。ルキノにつられて震えそうになって、アレッシオは縋るように、ルキノを抱きしめた。肩口に触れた手に、何かが触れて、アレッシオはそれを見つめた。
 小さな芽、双葉の丸い小さな芽がルキノの肩から生えている。葉が近くの草場から引っかかったのかと思っただが肩口に寄せた為間近に見えるその芽は、ルキノの肩から生えていた。
 息を呑んだアレッシオにルキノが大きく震えた。しなだれかかるようにされるがままだった身体を動かして、怖がる子供のようにしがみついてくる。アレッシオの首筋に触れた掌に柔らかな掌とは違う何かを感じて驚く。柔らかな草の感触。
 息を呑む、何がきっかけかわから無い上に、アレッシオはそれを否定できなかった。肩口に生える双葉が茎を伸ばし出すのを見て、身体が強ばる。だが、否定をするために払いのけることが出来ない。その芽はルキノに繋がっている。
 ルキノは抱きついたまま小さく震えている。その震えに揺れるように、目の前の小さな芽は茎を、根を、見える形で大きくしていく。喉が渇いた声が出ないままずっとぽかんとしていたらしい。震えたくなるのをなんとか堪え、アレッシオは視線を芽から離して必死に抱きつくルキノの方へ映す。
「嫌だ……兄さん。助けてよ助けて」
 滅多に兄弟としてアルのことを見ないルキノが小さく呟いた言葉にアレッシオは身を固めた。どうすればこの異常な状態が止まるのか分からない。半端に慰めの言葉をかけてしまえばそれは逆に彼を傷つける。ルキノが肩を震わせ泣き出すのを肩に滴る感触で察して、アレッシオは引きずられるように泣きそうになった。だが、それだけはと息を呑んで、込み上げてくるそれを飲み込む。
「たぶん、どこかで分かってた。分かってたんだと思う。だからあんな夢見たんだ。し、仕方がないんだ」
 嗚咽を飲み込んで、ルキノは言い聞かせるように何度も呟いた。頷きながら何度も何度も繰り返す。
「やめろ」
「こんな怖いなら……最初から一人だったら良かった」
「やめろ!」
 ルキノの身体がびくりと震えて固まった。呟いてた言葉はやんで伺うような空気になる。さらさらと切ったばかりの髪の毛をアレッシオはなるべく優しく静かに撫でた。草の匂いがルキノからする。
「……それは言うなよ。俺は一人は嫌だよ。母さんも父さんも今こっちに向かってる。傍にはいられなくて、何も出来ないけど……」
 撫で上げていた髪に指が絡む。それを解こうとそこへ視線をやると小さな枝がすっと生えていた。驚きはしたが、怯えないようアレッシオはそれを折らない様に、そっと絡んでいた指を解く。枝に指先が引っかからないように撫でる位置を少しずらした。
「アル……」
「外じゃダメだ。ドームの中へ行けば、少し、辛いかも知れないけど、止められるかも」
「……っ」
「立ち上がれるか?」
 ルキノが首を振っているのが首筋を撫でる髪で分かる。顔は見えない、表情は分からないがアレッシオは構わずに胸の内をさらけ出す。何も出来ない自分が情けない。
 ルキノを運ぼうと、アレッシオはドームの方へ連れて行こうとした。ルキノの身体がひと揺れする、アレッシオが目の前で葉が音を立てて伸び上がり、腕に絡むようにツタを伸ばし、ルキノの身体に巻き付いていく。彼の身体は、ひどく硬く、足は根付き地面に吸い付いて動かなくなっている。アレッシオに絡んだ腕は、無数の枝を帯びて幹とかしていく、絡め取られそうな勢いで彼は伸び上がる。
「ルキノ……」
「……動かない。それに、あそこは嫌だ」
「ルキノ、少しだけだから、その生えてきてる物を取って、戻ってくれば……」
「いい……あちらへ行けば、母さん達にも見られる。見せたくない。あの人達は怖がるから」
 怖がりはしないと言えなかった。口を噤んだアレッシオに、ルキノは寂しげに笑う。母さん達は大人だから、血を分けてもらってはいるけれど、一緒じゃないから。
「でも、でも、せめてアルはここにいて」
「出来るなら、一緒に木になってもいい。ずっとそばにいるから、ルキノが何になっても」
 長い沈黙、音は草と木の育つ音だけがしている目を瞑り耳を澄ますようにアレッシオはその音に聞き入った。同じ音は顔を寄せたルキノの中からもしてきていた。怖くはない。ルキノが背を蠢かせ、絡めていたアレッシオの腕がほどけた。身を少し引こうとして、少し考えて離れるのを止めた。ルキノはアレッシオの首に手をかけたままなので、顔だけが望めない。
「いつもと一緒でいいよ」
 いつもと同じ声で、ルキノは呟いた。
「たまにでいい、たまにここに来て?」
「……それでいいのか」
「うん」
 返事を聞いて、アレッシオは目を瞑った。何となく、そうしなければ行けない気がした。耳元で、枝のはぜ割れる音が響き、日差しを遮るように、何かが伸びていく。瞑った瞼から、やっと涙がこぼれた。
 とっぷりと日が暮れ、二人を捜すのは諦めた方がいいかもしれない。両親を伴って捜索に来た医員や老人から、そんな声が出る中、月夜にぼんやりと浮かぶ、アレッシオを母親が見つけた。
 アレッシオはただ、ずっと目の前の巨木を見つめていた。ルキノの姿はない。その木を見上げ、繁る青々とした葉の隙間から月を見上げた。
うつった月は、涙でぼやけて二つに見えた。