Novel

TOP > ノベル > Short Short > BL > 炎

「私は何のために生きているのだろうな……」
 古びた机に肘をつき、長い髪を投げ出すように俯いて神は泣いた。外は雨、彼の意を汲んで天候は気まぐれに変わる。
紫陽花が風に打たれて悲鳴を上げながら何とか地面に食らいついている。彼はそれに気づきもせず、ただ自分の現状を嘆いていた。
「私は……気づいたときにはここにいた。救う物も信じる物も減った今私も消えるべきなのだろうか」
 泣きはらした目で此方を振り向く、この世に存在しないはずの色は悲壮に染まり傍らに寄り添う男に助けを請うた。
男は日焼けし、節くれだった土の匂いのする指先で、その泣いてる神の無垢な肌をそっと撫でる。肌をなで輪郭に沿って、細く艶やかな髪を梳いた。神はその手に寄りかかるように目を伏せ眠るように柔らかに縋る。目尻にたまっていた涙が、伏せた睫毛に染みて宝石のような光を放った。
 男はそっと目尻に口づけし拭い去るとそっと神の傍を離れていった。伏せた瞳をそっと開き神は寂しげに男を視線で追う。男は部屋の奥へと消えていき、神が不安げに立ち上がろうか逡巡する頃合に、男は慎重気に火のついたろうそくを運んできた。
「……それは」
 男は無言のまま、神が肘をついていた古びた机にそのろうそくを優しくおいた。ろうそくはか細く、些細な空気の動きにも、揺らめく。その度に神は眉を潜めて寂しげに炎を見つめた。
「命の炎……」
 泣きそうになりながら、神は炎の名前を口にする。それは消えれば全てが無くなる存在の炎だった。神が生まれたての頃、灯したものだ。灯した当初その火は雄雄しく、全てを焼き尽くす勢いを放っていたが、今は違う。長い月日神を信じ救いを求める物が消えてしまいつつある今、それは今にも消えそうで儚く弱いものとなっていた。
「これが、なんだというんだ。こんなに小さくなってしまった炎を見せてどうしろと?」
 じっと男は神の語る言葉を真剣に聞いている。先まで座っていた神の傍らに静かに座ると、炎ではなく神の方を向いている。神が声を荒上げたので、外の風雨はより一層ひどくなった。雨粒が甲高い音を立てて、ガラス窓にぶつかる。
「あなたにはこれが小さく見えるのですね?」
 芯の強い丁寧な声で男はろうそくの灯に視線を動かした。神は男の視線とは逆に、男のほうへ視線を向ける。男の言葉を図りかねるような疑問の表情を浮かべていた。
「もう、と考えるのではなく、まだと考えていただけませんか」
 男の言葉に神はろうそくに視線を戻した。驚いたようにじっと凝視する。
「あなたを信じている物は、まだこれだけいるのですよ」
 神は肘を机からはずし、だらりと落とした。椅子がかたりと音を立て、音に反応するように炎はゆっくりと揺れ動いた。
「……私は、ゼロではないのに気づかなかったのか……まだ信じてくれる物がいるのに切り捨てようとしていたのか」
 神はまた泣いた。自分の視野の狭さに気づいたのだ。自分を悔いる神に、男は立ち上がりそっと後ろから肩を抱いてやる。
神はまだ泣いている。長い髪が震える体に動かされ、さらさらと音を立てて揺れる。雨は雹交じりとなって、ガラス戸を叩く。
「私もあなたを信じている一人です。お願いです。消えたいなどといわないでください」
 華奢な体を男は優しく包み込む。耳元でささやく言葉には切実なる願いと、愛情がこもっていた。
神は力なくだらけていた手を上げると、優しく抱く男の腕にそっと触れた。自分の不甲斐なさに流れた涙が男の腕に幾粒も滴っていた。それを神は弱弱しく拭う。
「すまない」
 ゆっくりと、神は顔を上げる。激しい雨音はゆっくりとだが静かに、穏やかになっていく。顔を上げ、首筋に埋める様にして、男のほうを神は見る。男も同じように、神の肩から顔を上げた。互いの目が合い、顔が唇が擦り寄るように重なる。
 雨はやんだ風もやんだ。全ては無風となり、空気すら消えた。音すらしない静止の世界で、命の炎だけが、ゆるりと揺らめき、その細い光で、部屋を揺らした。
「あなたが消えるときはその炎を消してください。私も一緒に消えましょう」
 耳元で囁かれた言葉に、神は震えた。それはしてはならないことで、でも神にとって最後の救いでもあった。