Novel

TOP > ノベル > Short Short > BL > 桜が咲く前

桜が咲く前

 私の悪癖が再発したのは、都内の町からだいぶ離れた、桜のある田舎に移ってしばらく経ってからだった。この悪癖のせいで私は以前いた学校を辞することになったというのに、なんとも惨めな気分だった。町と住所は銘打っていても、規模の大きくないここは私にとって居心地が悪い。望む景色や空気はいいのだが、親しみ過ぎる住民たちは、口に乗せるのも憚られるような悪癖を持った私にとって、邪魔なものでしかなかった。
 前職を辞するとき、捨てるよういわれていたものは捨てられなかった。引越しのとき、長持に潜ませてそれ以来、開けていなかった。何で私は教師というものを職に選んでしまったのだろう。他の職だったら、この悪癖がバレたところで、冷たい目で見られるだけだったというのに。
 長持の中のものは大して痛んでいなかった。するりと取り出し身に合わせる。焦りのような、なんともいえない、胸のざわつきが収まるようだった。少しばかり考える。今は夜だ、田舎の小さな町は夜が早い。ネオンも無ければ外灯も乏しい。少しだけなら、ばれずに自分の悪癖を解消できる。
 少しだけ、これを着て町を歩きたかった。あのりっぱな桜のあるほうへ行ってみようか。まだ春にはだいぶ早いが。少しだけ。気のはやる思いで私は長持の中身を畳の上にぶちまけた。

 しんとする町は寝静まったというよりは、死んでいるように感じる。月明かりは慎ましやかに舗装されていない道を照らしていた。素足に触れるひらひらとした感触が気持ちいい。黒いスカートに丸襟のブラウス、淡い桃色の上着を羽織って、私は夜道を歩いていた。口に紅をぬって、長い髪の鬘をつけている。私の悪癖はこれだった。
 いつもであれば身を切るような寒い夜風が、今はとても気持ちいい。すべてに開放された気分で私はつい、暗い町中へと足を進めた。笑みを浮かべ、水の張っていない乾いた田をすり抜ける。遠目に大きな桜の枝が月夜に光って見えていた。きっと春になれば淡い赤色が色づくだろう。そうしたら、夜桜を楽しもうか。そんなことを考えながら、町中の店が集中している付近まで来て、少しばかり胸が高鳴った。
 一度目の往復はとても慎重だった。ゆっくりとまるで泥棒か猫のように様子を伺い、ゆっくり歩いた。物音がするたびに驚いて、身体を震わせっぱなしだった。二度目は目覚める気配の無い町に安堵し、普通に歩いた。スカートをはためかせ、少女のように足取りが軽くなる。このときばかりは、厳粛でなくてもいい、生徒の模範にならなくてもいい。それが気持ちいい。
 町中をぐるぐると回って、月が傾き始めたので、私は家路につこうと思った。まだ慣れていない私にとって、早起きし、学校や町の様子を見るのは仕事同然だ。来た道を帰る。町をはずれ、田んぼの近くになったとき、突然、手を引かれた。
「おい。暇ならつきあえよ」
 聞き覚えのある声だった。反射的に顔を隠す。月と少し離れたところにある外灯が、私の手を引いた男の顔を薄っすらと照らしていた。つい最近、小学校の職員室で暴れた男だった。確か私が見ている組に弟がいたはずだ。日焼けした顔は、彼の弟にほのかに似ている。だが、性格は弟とは雲泥の差だと聞く。他の教師からなるべくであれば近づくなといわれていた。矢島とかいっただろうか。明らかに私を女だと思って声をかけてきたようだ。手首をがっちりと握られて、振りほどけない。ぐっと力を入れて反射的に引くと、矢島の顔が訝しげに歪んだ。顔を隠していた手をつかまれ下ろされる。直視されないように顔を逸らしたが、顔が近づいた。酒の匂いが鼻をつく。
「ん? はは、てめぇ、この間、職員室にいた新顔の奴だな」
 ぎくりとした。まさか覚えていられるとは思わなかった。小さな田舎だ。人の出入りが頻繁でないのだろう。私はあせった。ああどうしよう。矢島は面白そうに私を見てる。上から下まで射抜けるような鋭い目で、私を観察している。
「けったいな、趣味を持ってんだなぁ……、都会からわざわざこんな田舎に来るのは変わってんだろと思ったが、こら相当変わってるな」
「や、やめてくれ……お願いだからバラさないで……」
 乾いた声が私の咽喉から漏れた。後ずさりしそうになった私を両の手首を引いて彼は拒む。まだ見ていた。面白げで残虐な顔で。
「ふん。どうするかな……」
「っや、やめてくれ……たのむから、黙っててほしい……」
「はは、化粧までしてら」
 動物が匂いを嗅ぐときのように首筋に寄られた。目をつぶって視線をやり過ごす。心の奥で懇願するしかなかった。もうこれ以上、何かバレて去っていくのは苦痛だった。耳の奥で脈動の音が聞こえる。逃げられない、じっと佇むことしかできない、膝が情けないほど震えていた。矢島の顔が突然真顔になった。獰猛な獣のような、貪欲そうな目が鋭くひかる。
「こい」
「あっ!」
 片方の手首から手が離され、逃げられるかと思ったら、逆方向に手を引っ張られた。ひと回りも体躯が違う上、粗野な動きに慣れていない私には抵抗ができなかった。引きずられるようにして、暗闇の中、私は酷く情けない姿で連れて行かれた。

 暗い中ではいったいどこを歩いているのか、明るい町ですら慣れていない私には見当がまったくつかなかった。移動の途中、矢島はずっと無言だった。握り締められた手首は千切れるかと思うほど痛い。幾度も歩数が合わず、たたらを踏むが、彼は待つこともせずに乱暴に腕を引くだけだった。幾度も曲がり角を曲らされ、たどり着いた小さな家の引き戸を、彼は夜であることも考えず乱暴に開け放った。
 闇夜に慣れた目が、引き戸の脇にある郵便受けに、乱暴な字で矢島と書かれているのを見た。見止めた瞬間、腕を引かれて玄関をまたぐ。何をされるかまったく予測ができず、私は不安に駆られる。逃げたくて逃げたくてたまらない。泣けるのであれば声をあげて泣きたいほどだった。だが、そんなことができるはずがない。
「くつはぬげよ」
 目を合わせずに手を引かれたままそういわれ、あわてて女物の靴を放るように脱いだ。玄関で放り出された靴が高い音をたてる。あがり損ねて、框で膝を打ってしまったが痛みを感じてる暇がない。玄関すぐの襖を開け、中を見るまもなく突き放され、畳の上に敷かれた引きっぱなしの布団の上に放り出された。
「な、なにを……」
「黙れよ」
 強く言われ、黙ったとたんにのし掛かられた。みぞおちに体重がかかって思わずうめき声が出る。先のように両手を手で押さえられ、頭上で束ね、それを片手で押さえ込まれた。矢島の顔が私の視界を覆う。どんよりとした獣を思わせる恐ろしい眼光が、私を射抜いた。目すらそらせず、かといって閉じることすらできず、されるがままになる。
何をするかと思ったら、突然スカートの中に手が差し伸べられた。乱暴に唯一着ていた男物の下着が剥ぎ取られる。
「ひっぃ……」
「だまれよ、できねぇなら、ひっくり返った女みたいな声を出せ。萎えんだろが」
 そういわれて、やっと何をされるかわかった。男だから、そんな目に合わせられることはないと選択肢からして存在していなかった。矢島が私の身の上でごそごそと自分のズボンの止め具をはずしている音がした。焦りがいっそう増して、恐怖が湧く。
「ちょっ……や、だ。いやだ……」
 私は男なのにそれを相手はわかっている筈なのに、何でそんなことをされるのかわからない。さすがに抗うが、組み敷かれた上に、彼のほうが体躯が大きい、抵抗はただ身動きにすらならなかった。上で腕を束ねていた矢島の手に力がこもる、自分の骨がきしむ音がするようだった。あまりの痛みに動きが竦む。矢島が耳元で含んだ声で囁いた。
「ここしばらく、してなくて溜まってんだよ。変態だろ、こういう風にされんのが好きだからそういう格好してんじゃねぇのか」
 思わず、首を左右に振る。私はこんな馬鹿みたいな悪癖を持ってるが同性愛者ではない。そういうつもりも、女になりたいわけでもない。ただ、ただそういう格好が好きなだけだ。したいだけだ。あまりに首を振ったせいで、鬘がずれる。怖くてたまらないせいなのか、タガが外れてしまったのか、堪えていたはずの涙が出た。
「ち、ちがう……私は、私は」
「てめえの事情はどうでもいいんだよ。化粧の匂いなんかさせてんのがわりい」
 口蓋を片手で力任せに開けさせると中に何か布のようなものを詰められる。しゃべることができなくなって、私はなすすべがなくなってしまった。ぞっとするような手の感触をさっき框に打ち付けた膝に感じる。みぞおちから彼は身体を起こしたが、手は私の腕をつかんだままだった。器用にそのままの状態で、足の間に身をおかれる。手の感触が肘から太ももにあがってきた。寒気が全身を駆ける。
「んん!!」
 臀部が指で開かれる。秘部に熱く硬いものが押し付けられた。一瞬でそれが何かを悟って、気が違いそうになる。理性的な考えはもう頭に浮かばなかった。
「んぅ!!」
 口に布を含まれたまま叫んでも何も変わらなかった。

 目を覚ますと、そこはまだ矢島の家だった。上半身を起こすと身体の節々が痛み、どよりとした混濁しそうな意識も伴う。泣き腫らしたようで目が厚ぼったい感じがする。痛みが何をされたかを記憶から呼び起こし、思わず震えた。幾度も揺さぶられ、貫かれた瞬間を思い出す。気づけば、口に含まれた布は外に出ていたし、着ていたブラウスは無残にボタンを引きちぎられていた。いつ詰められた布を口から出したのか、ブラウスを破られたのか覚えがない。激痛に気絶してしまったのだろう。胸にはいくつか辛辣な痕があった。寝ていた部分に暗がりにも見える、濃い染みを見つけて羞恥心が吐き気とともに込み上げる。
 見回すと、傍らで矢島はなにも身にまとわずに大の字になって寝ていた。憎しみよりも恐れが先に湧き上がって、離れようとしてあわてて身体を動かす。うまく力が入らなかった足が、矢島を蹴飛ばしてしまった。寝入ってすぐだったのか、彼はすぐさま目を覚ました。ひどく、満足げな顔とにごった目が私を射抜く。蹴飛ばしてしまった私の足をその手が手加減なしに掴んだ。何かまたされるのかと身を縮める。
「黙っててやるよ」
「え……」
 耳を疑って、声が漏れてしまった。身を起こす矢島の姿を見てしまう。何もまとわぬまま、気だるげに胡坐をかくと、畳の上に散乱しているものの中から煙草とマッチを取り出して火をつけた。リンの独特な香りが、鼻をつく。
「黙っててやるってんだよ。ただな、来週また来い」
「え……」
「来い。わかんねぇか」
 有無を言わせない声音だった。煙草を加えたまま、私の間近に顔を寄せる紫煙が私の顔にかかってむせそうになる。だが、その前にスカート越しに握りこまれた。反射的に身が縮こまりそうになる。手加減なしに、手首や足首を握られた時と同じ挙動だったから、つぶされるのかと思った。
「ひ……」
「わかるだろな。黙ってほしいんだったら、来週のこの曜日にここに来いつってんだ」
「な、なんで……私は男で……」
「んなことは、どうでもいいんだよ。面白かったからな。女の格好してまたここに来いよ」
 なぜ、そんなことをいうのかわからなかった。だが、その目だけは本気だった。来ないと、このことをバラすという目だった。ゾッとした。蜘蛛の巣にかかった虫の気持ちがわかったような気がした。
 急いで帰らないと、田舎の朝は早いぞと、哂うようにいわれ、スカートと破れたブラウスのまま、私は痛みも忘れて田を駆けた。懸命に彼のいう言葉にうなずいたあとだった。

 家路について吐けるだけ吐いて、泥のように眠ったあと。最初はあれは嘘じゃないのかと思った、夢であってほしいと思った。だが、そんな思いは簡単に無駄だと悟った。学校へ向かう途中、通りすがった矢島は視線をよこしてきた。私は射竦められ、奈落に突き落とされる気分を味わった。
 ほとんど、無意識のまま一週間をすごし、死人のように過ごしながら私は夜を待った。日中はバレやしないかとびくびく過ごし、夜は夜で寝付けずに朝までぼんやりとしていた。何も覚えていないが、仕事だけはきっちりとやっていたようだった。我ながら、これしかないのだと自虐的に考えてしまう。
 女物の服はスカートしか残っていなかった。ブラウスは破れてしまっていたし、鬘も彼の家に置いていったままだったことに、自分の家を出るときになって気がついた。町が死んだように眠ってから、私はほとんど無意識に彼の家に向かった。

「なんだ、そのまんまきたのかよ」
「……服は、前のしかもってなくて……」
「ふーん」
 死ぬ気で出てきた私に矢島は思い切り興味のない様子だった。引きっぱなしの布団の上で、散乱した物に囲まれながら、胡坐をかいて紫煙を燻らせている。彼が何も言わないので私はスカートを握り締めたまま、立ちっぱなしで佇むしかなかった。
「……女物ねぇ……」
 何か思索しているかと思ったら、突然立ち上がられて、反射的に身を竦めた。だが、そのまま私の横を通り過ぎ、どこかへ行ってしまった。置き去りにされて、如何すればいいかさらにわからなくなる。ただ、このまま勝手に去って、あとで何か言われるのは怖かった。ただまんじりといやな汗をかきながら立ってることしかできなかった。数分で彼は戻ってきた。どうやら、家内で何かを漁ってきたらしく、何かを手に持っていた。襖際に突っ立っていた私に入るついでに押し付ける。取り落としてしまい。ばさばさとその布の束は畳に落ちた。全部、女物の洋服だった。
「え?」
「俺の女のだよ。身一つで出てったから、いくつか残ってる」
 おずおずと、私は畳に取り落とした衣服を拾った。ブラウスにスカート、スリップまである。着ていた女の趣味なのか、どれも色は鮮やかで下品なほど派手だった。妙な気分だった。まさか、こういう物を与えられるとは思わなかった。それに散乱した服の中には、下着のようで、自分が買うのをためらってしまった物もある。着てみたい衝動に駆られる。足を折って座り込んで、思わず手に取った物を胸にあてがう。どきどきと鼓動が高鳴る。笑みがこぼれていたのかもしれない。
「はっ、本気で喜んでら」
 嘲笑を含んだ声が間近で聞こえて、顔を上げると矢島の顔が目の前にあった。ぎょっとして、自分が彼の存在を忘れて喜んでいたのに気づいた。怖くて手が震える服から手を離して、後ろへ下がる。襖に肩が当たって音を立てた。胸にあてがったままのワンピースがずるりとずれた。
「なあ」
 その言葉はゆったりとしたものだった。怯えていた私はその強くもない口調に驚いて、襖に寄りかかったまま返事ができなかった。
「おまえさ、昔からこうやって変態だったのか?」
 どう答えていいのか分からず、私は胸にあてがっていたワンピースを脇に寄せた。下手に身じろぎすると殴られたりしそうで動作がぎこちなくなる。矢島の顔はにやついた軽そうな表情をしていつもと変わらない。ただ言葉遣いは普通の口調だった。
「わ、私は、よくわからなくて……」
 ただ何か言わないとと、急いで口に出し、まとまらないまましゃべってしまった。こんな風に疑問として自分の嗜好を訊かれるとは思っていなかった。今までだれも訊かれたことがなかった。私の嗜好を知った人がするのは罵ることで、理由を聞かれたことは全くなかった。
「なんだよ。わかんねぇのか?」
「い、いや……訊かれたことがなかったから」
 ふうんとうめいて矢島は退屈そうに新しく煙草を取り出すと、いつもの仕草で火をつけた。燐の香りが部屋に充満する。退屈そうだったから、それで終わるのかと思ったら、矢島はにやついた顔を動かして先を促した。
「父が厳しくて……」
「どこの親父も同じだな、くだらねぇこといいやがるよ」
 どうやら思うところがあるらしく、矢島は笑いながら同意する、ごちゃごちゃうるせんだよな。とつぶやく矢島に心底同意してこくりとうなずいた。ぽろぽろとまとまらないまま、思ったままをしゃべっていたら私は止まらなくなっていた。
 父は厳しすぎた、昔から名家といわれる血筋らしく、家もそれなりに大きかった。名家としての立場を守るための伝統がぎしぎしとあった。私は三姉弟の真ん中に生まれた。姉と妹に囲まれてた私は長男だった。
「俺と同じだな。俺は弟しかいねぇが」
「……私は……姉たちがうらやましかったんだ。綺麗な服を欲しがるだけ買ってもらえて……、レースとか可愛いんだ。彼女たちの物は」
 服の話になると饒舌になった。西陣の帯がうらやましかった、白いレースのスカートがはいてみたかった。姉達のようにやりたいことをやらせてもらいたかった。
 ちょっとしたスキだった。姉の部屋が空いていて、本人が不在だったことがあったのだ。隙間から覗けたベッドに広げられた白いワンピースを見て、気づいたら部屋に入り込んで、それを触って胸に当ててて遊んでいた。
「ふっ、バカだろ」
「……私はバカだったんだ」
 身を縮こめて私は身震いをした。誰にも見つからなかったのをいい事に、私は何度も姉の部屋へ忍び込んでは服を掠めていた。買ってもらえるだけ、与えてもらっていた姉は、自分が購入した物などほとんど覚えていないようで問われることはなかった。最初はうまく誤魔化せていた。深夜に一人、着込むことだけが至福で、罪悪感はあったけれど一番楽しかった。
「女になりたいとかそういうことじゃねぇんだろ?」
「剣道や武道よりも、日本舞踊や裁縫をしたかった。それだけなんだ……」
 レース編みや化粧をしてみたかった。結局、姉の物を密かに着ていたのを、ちょうど手癖の悪いのを理由に、クビを切られた使用人がバラし、問い詰められて何もいえなくなってしまった。過去にしがみついた父親はその嗜好を理解できずに呆れ怒った。世間体を気にする母は蔑み、敬遠した。姉も妹も、気味の悪い生き物を見る目で私を見た。気持ち悪い。あちらへ行って。そういわれて、私は家を出ることになった。
「母や姉達が、幸せそうに談笑しているのが、服を選んでいる時だった。私はその輪に入りたかった……」
 竹刀で滅多打ちにされている間、彼女たちは楽しげだった。私はそういう家族の輪には入れなかった。父親は自分の理想を、私に押しつけ強要した。つらく当たり、厳しくし、それ以上のことは一切してくれなかった。矢島は考え込んでいるものの、深く理解するつもりはない様だった。ぱちぱちと音を立てて、煙草を根元まで一気に吸いこむ。勢いよく吸い込みすぎて眩暈を起こしたのか、眉間を指で押さえると、不思議そうな思案の顔はどこかへ消えて、濁った目でこちらを睨んできた。
「もういいだろ。早く着替えな、女っぽく内緒でやってた頃のように」
 飽きたような物言いは、彼の興味は完全に逸れているのを示していた。話に夢中で、入り込みすぎていた私はその声に我に返った。見据える目はにごっているが、有無を言わせない力がある。そんな目で射抜かれて自分の状況をやっと思い出した。
「早くしろ」
 鋭い言葉に身体が竦む。疑問を投げかけてきた口調はあっさりとどこかに消えてしまった。機械のように私は震える手で着慣れたシャツのボタンをはずした。震えが酷くて、かなり手間取っているところを手首が掴んで止められる。
「ひっ……」
「立って脱げ、その方が面白そうだ。色っぽく脱げよ。」
 悪辣な顔は笑みの形にゆがんでいる莫迦にするような表情で、目だけが暴力を秘めた鈍い光を放っていた。

 色気とか、そんなもの含ませるほどの余裕もやり方もわからない。羞恥心と恐怖とで震える膝を無理やり動かし、立ち上がってボタンをはずす、穿いている物を脱ぐ、それしか考えられず、手足もそれ以上動かせなかった。
 ボタンをはずすにも、ズボンを脱ぐにも、手も足も身体も震えてしまっていつもの倍は軽くかかった。一枚一枚脱いでいくたびに無駄に羞恥を煽られ、顔が赤くなっていくのがわかった。人前で着替えたことは初めてではないが、見世物にされて脱ぎ着するのは初めてだ。恥ずかしい、このまま消えてしまえたらと、幾度も考えて手が止まると、容赦なく矢島の苛立ちのこもった声音が私を脅した。
 着込んだワンピースは少しばかり小さくて、背中のファスナーは半分しか閉められなかった。小柄な女性だったのだろう。スカート裾も短くて、惨めな私の痩せた足が必要以上に出てしまっていて無様だった。
「足がきたねぇなー……座れ」
 スカートに足を包むようにして、いわれたようにその場に座る。小さいけれど、黄を基調にした花柄のワンピースは派手ではあったし、自分には合わないとも思ったけれど、服自体はかわいらしい。ウエストにはギャザーが寄っていてそれがスカートに丸みを作っていた。足りない裾の代わりに白いレースをつければもっと可愛いかもしれないと身に着けたままぼんやりと考えていると、矢島が伸し掛かってきた。現実に引き戻されて恐怖する。
 声を上げて嘲笑われ、耳元で莫迦にされた。だが私には顔をそらす程度しかできない。顔をそらしたら、嫌がらせに舌を吸われた。先刻まで吸っていた煙草の匂いが、唾液と一緒に口に入ってきて気持ちが悪い。嚥下できずに、口端からこぼれてしまう。それを更に莫迦にされて私は泣くしかできなかった。苦痛しかない行為の間、一挙一動を凝視する鋭い目を真っ向から見てしまった。恐怖とは違う甘い震えが一瞬だけ走った。

 彼の弟は腹違いらしい。後妻の子だと職員室で聞いた。私は素知らぬふりをしながら、校庭を眺め泥まみれになって遊ぶ、生徒の中から弟を見つけた。顔の造作は柔らかな作りではあるが、かなり腕白らしく、周りの生徒以上に真っ黒になっていた。私の視線に気づいて、さっきまで別の話をしていた教師が、苦笑混じりに困るんですよといっていた。学校が終わってもよく残って、友人達と遊んでいるらしいのだ。目が似ている。鋭さこそないけれど、あの目は矢島にそっくりだ。ぞっとして、私は黙ったまま職員室から出て行った。

 相変わらず、私は週一で彼の元に行かねばならなかった。恐ろしいほど習慣化していた。情交は痛いだけで私に与えられるのは、苦痛と屈辱だけで、積み上げてきた物が無惨に壊れる音しかしない。
 ただ、一つだけ。彼の家に行けばいろんな服を着られるのが、何もない中での唯一の楽しみだった。以前と比べものにならないほどの服の数と種類は私を満たす、そのときだけは自分の世界に浸れる。数分足らずでそれは突き崩される短いものではあったけれど。幸せだった。
 矢島は私の着替えがよほど面白かったのか、自宅で着替えさせるようになった。野次を飛ばしながら、目の前で替えさせる。私はそれに怯えながら従うしかない。
 けれど、だんだんと私はおかしくなっているようだった。あの目は毒だ。視線が絡むと私は竦む、けれどその竦みと恐怖の中に、淫猥な興奮を感じるようになった。貫くような矢のような強い視線は、私が普段持っているものを捨てて、しがらみから抜け出せた瞬間を見ている。あの目は自由になった私を知っている。あの蛇のようなゆるい光を放つ目は、私から目を逸らさない。血のつながった家族ですら、私のこの姿を真っ当に見ようとする人間はいなかった。肯定はしていないだろうが矢島は私をまっすぐ見ている。擡げる興奮を抑えるのに私は必死になった。
 嫌でも慣れる。いつものように私は矢島の前で、着替えていた。視線が絡む中、赤い派手なスカートに足を通す。羞恥心と一緒に興奮が混み上げていて気が狂いそうだった。痛い視線が本当に見えない矢となって肌に痛みを走らせる。だがそれは、淡い興奮でもある。気取られまいと背を向けた。だがその不振な行為に、勘のいい矢島は気づいて腕を捕まれ倒された。押し倒されるような格好になる、ただ伸し掛かるようなことはせず、かわりにスカート越しに股座を握りこまれた。恥ずかしさで身体が熱くなった。
「勃ってやがる。変態つーのはわからねえな。見られてるのが良いのか」
「……や……やめて……くれ」
 耳元で嘲る声が聞こえて震えた。悪癖を見つけられたときよりも恥ずかしい。スカートが自分の形に歪んでいる、掴まれたせいか興奮のせいか、スカートに惨めな染みができて死にたくなる。逃げようと身じろぎすると、容赦なく彼は握っている手に力を込めた。
「ひっ……」
「だまってろ。黙れないならつぶすからな」
 頭を抑えこまれ、仰向けにされた。いつものように軽い恐怖が自分を覆う。だが握りこまれたわたしのは、そこは恐怖を感じても萎えなかった。それを面白がってなのか矢島は弄りだす、擦れる布に痛みを感じるが、それよりもされると思わなかった行為に、私は戸惑った。
「な、なに……」
「黙れ」
 ぴしゃりといわれて、戸惑ったまま私は押し黙った。何をされているか分からない。分からないまま空を仰いで染みだらけの天井を見つめていた。これから襲うはずの痛みに耐えれるようにと気持ちだけ構える。だが痛みはこなかった。擦り上げるような感覚はいつもと丸で違う感覚で驚いてしまった。
「あっ……はっ」
 ぞくりと興奮を煽られて、声が漏れ出る。慌てて口を押さえるが、それはすぐに矢島に外された。意地の悪い顔が歪んでいる。哂って私の痴態を楽しんでいるようだった。
「こういう声は女みてぇだな」
 布越しでも私は惨めに感じていた。いまさらそれが恥ずかしかった。いつものように痛めつけてくれた方が遥かにマシだった。これ以上私を壊さないでくれ。壊さないでくれ、懇願したい。だがそれは一蹴されるに決まっていた。私はされるがままの道具に玩具に過ぎない。暇つぶしの面白い玩具に過ぎない。
「勝手が分からんな……」
 ぶつくさとつぶやきながら、矢島は布越しで必要以上に攻め立てた。せっかくのワンピースを惨めな染みが汚していく。可愛い花柄が濡れて滲む。私は泣きたくて、それ以上に急き立てられて、甘い痺れに考えが至らない。
「もっと鳴けよ。変態」
「っくぅ……」
 耳元で嘲る様に囁かれ煽られる。これ以上、興奮する自分が怖くなって、逃げるように身じろぎした。だが、その行為は無駄に過ぎなかった。
「あっあっ! い、いやだ……っ」
「いやじゃねーだろ、鳴いてんじゃねぇか」
 違うと言いたかった、けれどその言葉は行為によって遮られた。意味のない弁解の間も与えずに、彼は必要以上に私を嬲った。いつもより苦痛に満ちた行為は、一度や二度じゃ終わらなかった。死んだ方がマシだと何度も考えが浮かぶだけど激痛に苛まれながらも萎えない自分が酷く惨めだった。

「ああそうだ、面白いことを考えた」
 立ち上がることができなくて、されたままの姿で横たわっていると、一服していた矢島が傍らで何か思いついたようだった。此方に向けて紫煙を燻る。私は煙で思わず顔をしかめた。なにを思いついたのだろう。不安に駆られたのと、彼の吸う煙草の火が自分に近くて、私は少し距離を取った。布ずれの音がして、矢島がこちらを見る。
「おまえ、今度、その格好で大桜の袂にたってろ。学校の先にある丘の上の桜」
「え」
「素性のわからねえのには誰も近寄らねえよ。ここらの人間は」
「わ、私は……」
「変態。桜の袂なら、誰も寄って来ない。あれは呪われてるってずーっといわれてるからな」
 目を見てしまえば、彼が本気でそして有無を言わせるつもりがないことがすぐに分かる。私に断りはできない。そんな物は存在しない。だが、返事ができずに黙っていると、無造作に髪をつかまれ、首を反らされた。ぶちぶちと髪の毛が抜ける痛みと音がする。首がのけぞって息が上手くできない。
「ぐっ……」
「きいてんだろ。やれよ」
 私は目で訴えて了承した。それ以上のことはできなかった。もうすぐ春がやってくる。暖かになるはずなのに私の中は空虚で、悪質な物しか残っていない。冷たい絶望に混じって淫猥なよからぬ衝動が生まれてる。自分がいつまで持つのか、分からなかった。