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番外-その後の二人(眼鏡視点)

 年末年始を過ぎて、成人式のあわただしい行事も過ぎた。けっこう、忙しく一人しかいない自分にはだいぶきつかった。それもまた、ひと通りすんでいつも通りの店営業だ。平日の夕暮れ、真冬のさなかであることもあって、人通りはほぼない。客足がなくて気が抜けていた。多忙から開放されたのもあるが違う一因もある。
「こないもんだ」
 ほぼ毎日きていた翔平が年が明けてから一度もきていない。年末テストの期間ですら、勉強を教えてくれだのとむやみに店先にきていたのにぱたりとこなくなった。きたらきたであまり落ち着かないからいいのだろうけど、それにしたって頻繁だったのがゼロになるとこれはこれで落ち着かない。
「っ……」
 唐突に思いだして突っ伏する。なんであんなこと了承したのだろう。勢いに押されたというのはある。年下で、学生で、なにより同性で、本人は気にしていなかったようだが、世間的にそれでいいのか。いや……もう関係ないのか。最後まで、してしまったのは事実で、その中に気持ちはこもっていた。少なくとも、承諾した自分はそうだと感じた。だからこそ拒まなかったしその選択には彼への好意も含まれている。彼はどうだろうかわからない。迫ってきたのは彼からだった。
 ……考えるのは止めよう。恥ずかしい。改めて外を見る。店外は暗く店から漏れる光しかなく道端までは照らしていない。だが、そこに人影は差す気配はまったくない。木枯らしも厳しいし、夕飯時は過ぎてしまっているのもあるだろう。物悲しさが増している。
「閉めるか」
 レジの椅子から立ちあがり、落ち込んだ気持ちを身体ごと持ち上げる。時間的には早いけれどもこの様子では駆け込みの客もきそうにない。小さなため息をつく。
「あー……」
 こないのか。結局、自分が寂しいだけなのだ。
 会計をノートにまとめながら、ため息をついた。パソコンで済ませてしまえばいいのだが、手作業のほうが好きだったりする。最後はデータをパソコンに落とし込むので手間は変わらないが、データは損失してしまうので用心がてら手書きでも行ってる。研究データが学内の停電で半分おじゃんになったことがあるので手間になっても手書きだけはしておこうと決めていた。さすがに、目が疲れて眼鏡を取る。ハーフリムのちょっといい、普通の眼鏡。普段かけている鼻眼鏡ではない。あれはあれで、ちゃんと度いりのサングラスなので、それなりに使い勝手は悪くない。鼻は手作りだし。だが、事務作業だの読書だの結局のところ普段の生活に関しては鼻先が邪魔だったりする。とくに机に向かうときは鼻が邪魔でみえないことが多い。だから、普段使いに眼鏡はもっていた。翔平には教えてない。鼻眼鏡しかない。といってしまった。
「ずるいよな」
 眼鏡のフレームをなぞりながら、ぼんやり思う。
「う……うーん」
 呻く。まっすぐな目はきっちりと好意を含んでいる。自分に向けられる好意がこれだけくすぐったいものだとは思わなかった。嬉しい反面、恥ずかしい。明確に言葉には出さないのに、態度で丸わかりなのだ。本人に隠す気はないのだろう。素直なのはいいが、あまり恋愛ごとに慣れていない自分にとっては大いに戸惑う。
 ため息は細長くゆっくりとでた。独りきりで考えているだけなのに恥ずかしくなってきた。顔に触れるとわかるほど熱い。室内はほどほどに暖かいはずなのだが暑いくらいだった。世間体とか考えればいくらでも問題はある。わかっているけれど。それ以上に気持ちの問題のほうが大きかった。なんでこんなに翔平のことを考えてしまうのだろう。会ったら会ったで、まともな態度なんかとれやしないのに。
「もう、こないかな」
 翔平はまだ学生だ。自分とは違う。楽しいことも多いだろう。ノートに向かう気が失せてそのまま横になる。古い畳の堅い感触を背中に抱きながら、目をつぶる。
 朝から忙しかった。休日で近所の講堂でなにか発表会があるらしく、朝は外へ出ずっぱり、帰ってきたらそこへ向かうお客の贈呈用の花束づくり。まあ、この発表会が、中年のおばさんたちの集団でなければ……作って渡すだけでいいのだけれども、そうはいかなかった。
「でねぇ、あの人ったら」
「本当なのー?」
「この花をいれると高くなっちゃうかしら」
 狭い店先に着飾った奥さんたちがひしめいて好き勝手しゃべっている。ただ、聞き流していると、自分への質問が混じっているので油断ならない。
「あ、それはちょっと値がはりますね」
「で、それで……聞いてみたらひどいの」
「あらそうー。でもかわいいわよねえ」
 悩めるおばさんはとりあえず、先にできた花束を隣にいるおばさんと世間話で盛りあがっていた人へ手渡した。自分自身の用事がすんでも、一緒にやってきたので店内からは去らない。あれよと慌てていると、またお客が入ってきたようだった。ひやりとした風に目を伏せる。花があるのでそこまで暖めてはないが、さすがに冬風はつめたい。
「いらっしゃいま……せっ」
 どもってしまった。寒さにおばさんたちも会話を止めてそちらを見て、入ってきたほうは、ちょっとたじろいでいた。
「あ……忙しい?」
「イヤっ、えっと」
 翔平である。制服姿ではなく、コートを着込んでデニムのパンツの私服姿だった。もの珍しさを感じてぎくりとする。
「あなた、戸閉めてもらっていい?」
 おばさんの一人がたじろいでいる翔平に向かってぼやくと翔平は去ることなくそこを閉めた。数人たむろっている客の脇をすり抜け、店内と室内をつなぐ土間に座り込む。
「やっぱり、このお花いれてもらおうかしら」
「あ、はい」
 先ほどまで悩んでいたおばさんが、決意したらしく告げてくる。花の状態のいいものを選んで、作りかけていた花束に添え、枝を切りそろえようと、脇にある枝切り用のバケツに枝をつける。ぎょっとするほど冷たいが冷たいといってられない。振り向く方向が土間側なので、必然的に翔平のほうを見てしまう。一瞬、目が合ってしまった。鼻眼鏡はしているので、翔平のほうは表情を読みとれないだろう。寒い外から入ってきたせいか心なしか頬が赤い。が、なにかいつもと違う気がした。態度かなと不安になる。いつもよりおとなしい気がする。どうしたのか問いたいが、状況が許してくれない。
「だいじょうぶ?」
「あ、すいません! いまやりますね」
 慌てて水中に浸していた枝をハサミで切り落とす。間が悪いことに慌てていて見ていなかった。
「いっ!」
 鈍い痛みに花をバケツに取り落とし、とっさに指を咥えた。金っぽい味がして顔をしかめる。ハサミの先で挟んでしまった。
「あらだいじょうぶ!?」
「どうしたの」
 おばさんたちがレジ台から乗り出すように伺うのをなんとか手で制して、咥えていた指を口から離す。さすがに薄皮を切っているようで血が出ている。ハサミやとげのあるものも扱うので気をつけていたのにうっかりし過ぎた。レジ台に設えてある引き出しから絆創膏をとりだすと簡単に貼る。バケツに取り落とした花はそのままにして、再度同じ花を取り出すと、今度はきちんと水切りをしてやる。
「すいません」
 手早く花束にして、最後の一人にも花束を作った。どうやら指を切ったのはしゃべり込んでいた自分たちのせいだと思ったらしい。黙ってしまった。
「指切ったの?」
「ちゃんと消毒しなきゃだめよ」
「はい、だいじょうぶですよー。きちんとしときます。お時間だいじょうぶですか?」
 おばさんたちが慌てて時計を確認して支払いを済ませると去っていく。吹き込む風を真っ向に受けながら、早足で通りをゆく彼女たちを見送った。
「っぐ!?」
 突然、めいっぱい襟が絞まって後ろに引かれた。しりもちをつきそうなぐらい、首に重みがかかって苦しい。
「ち……ぐるっ」
「だいじょうぶなのかよ!!」
 結局、腰を痛めそうだったので素直にしりもちをつく。ひやりとした土間は冷たい。翔平が身体で支えてくれているようで大の字で倒れることだけは避けられた。
「絆創膏貼ったからだいじょうぶ」
「ちゃんと消毒してないだろ!」
 背後でほとんど抱かれているような格好になっていると気づいてぎくりとした。身体が近い。掴まれた手から貼ったばかりの絆創膏を貼がされる。皮を挟んだ程度で肉は切っていないのでたいしたことはない。確かに、血は出たし、仕事は水や植物、土を弄る以上きちんとしておいたほうがいいのは確かなのだ。
「やるから、やるから、ちょっと、店先みていてくれる?」
 大慌てで握られていた手を外すし、立ちあがる。きちんとした救急道具は店ではなくて、部屋にあるのでさきほどまで翔平が座っていた土間をまたいで部屋へ入った。台所で傷口を水洗いし、救急箱を開ける。切り傷のたぐいは多い仕事なので、絆創膏は種類が豊富である。消毒液を垂らして軽く水気をとると適当に貼り付ける。ほんのすこし、気づかれないようにため息をついた。久しぶりだが、態度が変わらないそれがまた戸惑う。
「平気?」
「本当にたいしたことないから」
 土間から身体を伸ばして翔平が様子をうかがってくる。不安げな顔に近寄ると頭をなでた。硬くてツンツンした髪だが触り心地はいい。なにかをいおうとした口がきゅっと結ばれる。目がほんのすこし元気をなくし伏せた。
「なんかあったの?」
「え?」
 伏せられていた目が不意にこちらを見る。一瞬悩むように目を逸らされたが、戻ってくる。いつもならはっきりといってくるだろうに今日は違う。
「……んと」
 言葉尻が珍しくぼんやりしている。
「一昨日からさ、親父が一時的に赴任先に行ってて」
 ゆっくりと吐き出す声音は調子がいつもと違って重い。噛みしめているような口調だった。
「一週間ちょっとなのかな。だから、家、一人でさ」
「うん」
「最初はよかったんだけど、なんか、帰ってこないのって寂しいんだなあってしみじみ思った」
「なるほどなぁ」
 自分自身、一人きりの心細さはなにとなく解る。帰ってくるとわかっている一人と、自分しかいないのは、気持ちの持ち方が変わってくる。
「普段も親父は帰りとか遅いから一人のことってよくあるんだけど、やっぱなんか違うな。実際、赴任したあとは、おばさんがうちに住む話になってて、なんか、最初、イヤだなとか思ってたけど、なんか……ん」
 言葉が止まる。から笑いをしようとして、泣き顔になっていた。
「気が紛れるならうちにいればいいよ。あがってなさい」
「……うん」
 土間から部屋にあがってきた翔平とは逆に自分は土間に降りた。店先用のサンダルを足にひっかける。レジ台前じゃなくても、通りは見渡せる。自分の姿も通りからはみえるだろう。
「情けないよなあ」
 背中に硬いが温かい感触と重みを感じる。重過ぎない加重が自分がなにかに寄りかかっているような気がして心地が良くなる。我ながら調子がいいが嬉しい。
「まあ、そんなもんだよ。自分だって慣れるのには時間がかかったよ」
 実際、実家とこことでは人の密度がだいぶ違った。実家は家族以外の出入りも多かったし、賑やかだった。そういう部分は一人暮らしの今は愛おしくなる。なまじ、客商売をして、昼間人としゃべるのに閉店後は一人きりだからなおさら一人であるのが強調されてしまう。感じる寂しさは一際強い。
「親父が忙しくて、準備は自分がやったんだけど。なに用意すればいいかわかんなくって一週間分の準備するのに一週間もかかったんだぜ」
 確かに、模索しながら用意すると時間がかかりそうだ。なにぶん、学校も始まっているようだし、親父さんと二人暮らしではそうそう準備にかける時間もないのだろう。
「おかげで会いに来る暇もなかった」
 申し訳程度だった重みはもっとしっかりかかってきて、翔平が寄りかかってきているのがわかる。そんな行為と言葉とで恥ずかしさが一気に沸きあがる。顔が熱い。鼻眼鏡はこういうとき便利だ。表情が外に漏れない。
「まあ、あえたからいいけど」
「う。うん」
 寄りかかった体重はほとんどを預けているようで、立ちあがって距離をとることができない。そっと後ろを振り返ると、ちょうどこちらを観察していたのか同じように振り向いている翔平と目があった。ほんのすこし、口角が笑みに歪む。見透かされている。
「寂しかった?」
 笑いのこもった声で思ったとおりつっこまれた。ぎくりとして身体に力が入ってしまう。素直になるか、ごまかすか一瞬考えてしまったがそれは冷たい風に遮られる。
「あの……仏壇用のお花が欲しいんですけど」
「はいはいっ」
 小柄な中学生ぐらい少女が遠慮がちに扉を開けているのをみて慌てて立ちあがる。一瞬、女の子がぎょっとしたが、そのまま中へと入ってくる。たぶん、眼鏡に驚いたのだろう。目端に土間をみるが姿がみえなくなっていた。奥へひっこんだようだ。客に顔を見せないほうがいいだろうと思ったのだろう。女の子はきょろきょろと店中を物珍しそうに眺めていた。あまり花屋にこないのかもしれない。物珍しそうに店内を見ている。仏花に関してはいくつかまとめて花束にしてバケツにいれている。それなりに需要のある花束なので、朝方に事前に準備をしておく。そのほうが簡単だからだ。その中から持ちがよさそうな花束を見繕う。
「枝はどれぐらい必要ですかね」
「短くていいっていって」
 どうやらおつかいらしく、思いだすような仕草をしてうなずく彼女に示すように花枝の長さを確認させて、適当に切った。輪ゴムで二つの束になっている花束を紙でつつませ、会計を済ませる。
「ありがとう」
 礼を述べる少女に手をふって見送って、振り向いた目の前に翔平がいた。
「うあ。な、なに……あっ!」
 手に提げられた見覚えのある眼鏡に焦ってしまった。あの普段使いの眼鏡だ。しまった、部屋の中のちゃぶ台に起きっぱなしだった。
「これ、鼻眼鏡の?」
「えっと、そう……です」
 おもわず敬語になってしまった。一気に居心地が悪くなる。棚の中にしまっておけばよかった。なんで放り出していたのだろう。
「普通の眼鏡もってんじゃないかー」
 呆れ声が投げかけられて本当にいたたまれなくなる。抵抗できずに翔平の出した手に鼻眼鏡がとられてしまった。さっとぼやける視界にほんのすこしだけほっとしてしまう。だが、それもつかの間ではっきりした視界に目眩がする。
「お。ぜんぜん印象違う。あたりまえだけど」
 目の前にくっきりみえる翔平がいる。妙に嬉しそうな、面もちで自分を見てくる。眼鏡を隠していたことを咎めるというより、面白いものを見つけたという表情だった。まじまじと覗かれて恥ずかしくなり避けるように翔平の脇をすり抜けるが追いかけられた。店内で逃げられるわけはない。結局、翔平がいつも座り込んでいる土間の段差に追いやられて座り込んでしまうしかなかった。外すそうとしたが遮られる。
「ほかにあるなら、鼻眼鏡じゃなくてもいいじゃないか」
 鼻眼鏡をしている元の理由は身柄隠しの意味もなかったわけではないけれど、結局は柔軟なコミュニケーションのネタとして使えないかと思っただけだったりもする。家柄のせいもあるし性分もあるが会話が苦手なのだ。なにをどう話題にすればいいか戸惑う。相手に委ねると、物珍しい目に注目されてしまって広がらない。結局のところ苦手なのだ。それに、今はこんな些細な理由はどうでもよかった。
「いや、それはないとっ」
 奪い返そうともう一度挑戦して失敗した。翔平は身をよじって私をかわすと一歩引いた。
「見慣れてんだけど、やっぱり表情みたいんだよな。みえないんだよ」
 なんのどんな表情をみたいのだかわからないが、それが嫌なのだ。
「は、恥ずかしいんだよ」
 まっすぐ目がこちらをみている。はっきりと映るその目とあってしまって、慌てて逸らした。正常でいられない自分がひどく情けない。なんでこうまでして恥ずかしい思いをするのだろう。ほんの前までは偉そうな口をきいていたのに、今は真っ向から彼を見ていられない。逸らした目で翔平をみようとして逆に彼が覗くき込んでいてとっさに目を外そうとした。
「あだっ」
 とっさに顔を背けようとしたところを両手で遮られて首が鳴る。
「いたたっ」
「あ、ごめん」
 じんわりと痛みが背中を走って苦痛に呻く。しばらく目をつぶって痛みが消えるのを待つ。それでも翔平は顔を捕らえた手を離さなかった。ただ、添えるだけで掴んではいない。ほんのすこし冷たい手が心地いい。
「すぐそうやって、顔を逸らす」
 そりゃ、みてられないから。という声を閉ざす。いっていいものか悪いものかなやんでしまう。変に言葉にして翔平のなつっこい行為がなくなる可能性だってある。自分は嫌がっているわけではないのだ。ただ、耐えられない。年上なら自分自身が落ち着いていなければいけないとか、甘えそうになってしまって結果、その態度に退かれるじゃないかとか、考え出したらきりがない。
「……苦手なんだよ」
「触られるのが?」
 触れられた手を拒んでいないのを知っていて確認しているのか、ただ思ったまま口にしているのかわからない。否定じゃないと離れそうな手に顔を寄せるように傾けた。手は離れることなく、むしろ添えるように力がこもった。
「目を……見てくるだろう」
 翔平がきょとんとした。もしかして、自意識過剰なだけだったのだろうかと焦る。
「鼻眼鏡の目、好きだし」
「そうやって、いうのも……どうしていいかわからなくなる」
 翔平は黙っている。手はまだ添えたままだけれど、目は真剣だった。必死なもの言いに真剣になってくれるのは嬉しいが、半面、本音を最後までいわなければいけなくなって顔が熱くなる。
「恥ずかしいんだよ……どういう態度をとればいいのか……翔平は素直で分かりやすいから」
「なんかバカって、いわれてるみたい」
「そ、そうじゃなくて」
「わかってるよ」
 ああ、遊ばれている。口元が緩んでいる翔平が自分をみている。はっきりいってこの場からいますぐ去りたい。死ぬほど恥ずかしい。だけれど、きちんといわないと離れられてしまうのではないかと不安になる。それは嫌なのだ。
「嬉しいし、自分だって……その、甘えたいし」
 自分でなにをいっているのかわからなくなってきた。翔平の顔はもう見られない。手にぶら下げている鼻眼鏡を奪いたくてたまらなかった。なんだろう。それそのものはただの眼鏡であたりまえだが間抜けなおまけがついている。表情が隠れるというのは安心できる。眼鏡と覆われた鼻は立派なフィルタなのだ。
「けど、そんな欲求ばかりじゃだめだろうって、せめて理性ぐらい保ちたいから」
「なんか、まとまってないなぁ」
 楽しげな口調にますます恥じ入る。はっきりいたら、鼻眼鏡などもうしていないだろうし、こんな風に焦った態度なんてとらない。
「うるさい。わかってる」
「好き過ぎて保ってられないから、鼻眼鏡してるってこと?」
「っ……とりあえず返して……」
 はっきりといわれて居たたまれなくなってしまった。顔を見られたくない。鼻眼鏡を掠め取ろうとして、また避けられた。それならばと、自分の眼鏡を外すそうとして遮るように抱きしめられる。
「店先っ」
「すぐ離れるって」
 自分自身は座った状態なので、なんだか倒れかかっているのを支えてるような感じだ。近くて音が聞こえてきそうなぐらい近い。抱き返していいのか迷っているのに身体から力が抜けて自然と顔が肩に沿う。
「おもしろいよな。反応がなんでそんなに落ち着かないの」
「……そりゃね。こういうのは初めてだから……」
 家も特殊であり、人とは疎遠気味で、唯一友人もいて楽しかった大学も独特の雰囲気があった。自分自身どうやって家から離れるか、しか考えていなかったから色恋沙汰からは疎遠になって、とにかく、すべてが初めてで戸惑ってしまうのだ。互いに気持ちを確かめたわけでもないのだが、その不明確さもとまどいのひとつだ。素直に甘えて欲しがっていいのかわからない。
「恥ずかしいんだけどね……」
 その言葉のあとは出なかったそのまま翔平の肩に埋もれる。支えるように肩に力がこもり痛いほど抱きしめられる。そのまま甘えて肩に手を添えたとたんに離された。距離をとった翔平の顔が正面にあって恥ずかしくなった。甘えようとしていたのを翔平は完全に見抜いている。
「客がきたらまずいんだよね」
「……それ、わざと?」
 さすがにこらえ切れなかったのか顔を背けて笑い出す翔平の頭にひと叩きいれてやる。それがスイッチになったのかうずくまったまま動かなくなってしまった。肩が震えて本気で笑っているようで、必死に声を漏らすまいと口を押さえている。さすがに呆れて立ちあがると店外の植木物の様子を伺いに行くことにする。風が強いようだから枝がたわむようなら回転させておこうと切り換えた。
「おもしろ過ぎっ」
 いまだ笑っている翔平に完全に呆れて戸を開ける。冷たい風が吹き抜けて耳元で音になった。シャツにエプロンはすこしきつかったかもしれない。上着をとってこようかと思い直して、扉を閉めた。
「……キだなあ」
「ん、なんかいった?」
 耳元で風音がうるさくて語尾しか聞こえなかった。翔平がいつの間にか土間をまたいで部屋へ入り込んでいる。顔を上げてみつめられたので首を傾げてみた。
「よく聞こえなかった」
 扉を閉めて風音を遮ると、ほんのすこし乱れた髪をなでた。翔平は呆気にとられたようなきょとんとした顔でしばらくこちらをみていた。声が聞こえてないのだろうか。
「キがとか聞こえたけど」
「独り言、ねえ。トイレかして」
「あ、うん。縁側を奥に歩いてってあるから」
 唐突だが、急ぎならそれはたいへんと、場所を教える。小さな家だから詳しくいわなくてもわかるだろう。翔平が奥へ消えていく。さっきの言葉は結局分からずじまいだった。首を傾げて自分もやろうと思っていたことを完遂しようとして、物音がした。翔平が顔だけで覗いていた。
「終わるまで待ってる。サトルさん」
 さっと顔が消えて視界から翔平がいなくなった。一瞬なんと呼ばれたか聞き損ねた。自分の格好からして、ずっと鼻眼鏡としか呼ばれていなかったからものすごく動揺していた。名を呼ばれたのはあのときの終わり以来だ。ああ、思いだす。ダメだ。
「あのー?」
「え あっ!」
 唐突に開いた扉とかけられた声に見もせずに対応して突進した。しかも寄りによって入ってきたお客さんは店内にいれてくれると思っていたらしい。それはそうだ。扉に手をかけていて立っていたのだから、顔も外を見たままだった。女性に押される状態でそのまま無抵抗にしりもちをつく。眼鏡が飛んだ。乾いた音がする。
「ご、ごめんなさいっ! あれ!?」
 どうやら気にした女性が慌てて近寄ったらしい。乾いた音がしたところから立派な破壊音が聞こえてくる。足で踏んだようで慌てている。
「ああっ! うそ! ごめんなさい! ごめんなさい! 眼鏡がっ」
「気にしなくていいですから、こちらこそすいません。ぼっとしてて」
 渡された眼鏡の感覚は、レンズの破片が手に触れてわかった。これはもしかしたら、もう使えないかもしれない。もとよりお金に余裕があるわけではないし、直すにしても買うにしてもしばらくは先だろう。
「べ、弁償しますから……」
「換え、ありますし……むしろ、ちょうどよかったかなと……」
「はい?」
 いっている意味が分からないような返事が返ってきたのをあいまいに笑顔で返して、部屋の境へ行く。本当にトイレに行ったのだろうは入り口の近くにいつもの鼻眼鏡がおいてある。とりあえず、普段の眼鏡が壊れたのは黙っていた罰だと思おう。ただ個人的にほっとしている。
「冷静でいられるわけない」
 口の中でつぶやいてつけてみる。翔平をきちんと見るにはまだ、自分は落ち着いていられない。眼鏡で自分の気持ちを和らげる。外すときは気持ちをぶつけてかまわないときだけでないと、自分が耐えられない。もうしばらくは間抜けな外人風を装ってみることに決めた。