Novel

8話

 日落ちが早い中、オレは小走りに店先に近づく。手にコンビニで買った肉まんをいれているので、がさがさいっている。
「いらっしゃ……ああ」
 窓越しに客に紛れて、鼻眼鏡がいた。あたりまえのようにあの眼鏡のままである。結局、眼鏡は変わることなく接客している。
「どうかしたの?」
 ガラス戸を通って、中へ入る。お客さんだろう中年のおばさんにお釣りを渡しているところだった。いちおう、通りがけに会釈する。土間に座ってなにとなく見ていた。
 おばさんは一言二言鼻眼鏡としゃべってから帰っていった。鼻眼鏡がこちらを向く。ほのかな笑顔にこちらも顔が綻んでしまう。
「昨日さ、赴任を祝うって親父の飲み会があったんだけど、すんごい花束もらってきたんだよ」
 そんな事情を話ながら、持っていたコンビニ袋から肉まんを取りだす。まだそれなりに温かい。ひとつを口に咥えると、もう一つあった肉まんを寄ってきた鼻眼鏡に差し出す。受け取りはしたが悩んでいる。まあ、店先だし、仕事中だからだろう。
「それでさ、花の手入れなんてわからないからさ、聞きにきた」
「んと、毎日、水を取り替えて、水切りって茎の下を水の中で切ってあげるといいかな。切れ味いいハサミで斜めに切ってね」
 はきはきと答えながら、結局あきらめたのか、持っていた肉まんに口をつけた。
「あちっ」
 身がまだ熱をもっているので勢いをつけて食べるのは危ない。といい損ねた言葉通りの行動をした鼻眼鏡に笑ってしまう。
「わ、笑うことないらろ……」
 本人自身恥ずかしかったようでほんのすこし狼狽していた。表情は鼻眼鏡でみえないのだがなにとなく解る。しかも、やけどしたのか舌をだしている。
「いきなり食べるから、ゆっくり食べればいいじゃないか」
「そうはいうけど……店先なんだから」
 まだ痛みが引けないらしく手が止まっている。自分は二口目を噛みしめながら、なにとなく見ていた。
「う?」
 鼻眼鏡がこちらを見てくる。目があったのだろうか、動きが止まる。舌が出しっぱなしだ。ちょいちょいと手招きすると簡単に寄ってきた。さすがに舌はしまっている。近づいてきた鼻眼鏡のエプロンの首元をひっつかむと顔が近づく。眼鏡の奥の目が真っ向にたどり着いたとたん逸れる。顔を押さえて顔ごと逸らされるのだけは避けた。
「んっ!」
 柔らかい感触。鼻っ柱があたって気になるんだけれども、そこら辺はいいやもう。震えて緩んだ唇から舌を舐めとるように触れて啜る。ぼそっという音がして、下を見ると。食いかけの肉まんが落ちていた。
「もったいねえ!」
「えっ、あ! あ!」
 鼻眼鏡がぱっと離れて落ちた肉まんを拾い上げる。店先はだれもがそのままあがり込むし、土気はあたりまえなので泥だらけだった。拾い上げて土を落とすが意味がない。
「さすがに無理では」
「ごめん」
 至極、残念そうな声音に笑いそうになってしまう。とはいえ三秒ルールなんてものはさすがに通じない。地べただし。と持っていた食いかけを割る。
「ほい」
「え。ああ、ありがと」
 ほんのすこし考えたが、鼻眼鏡はそれを受け取ると一口かじった。だめになったものは店先のゴミ箱に放る。なぜかゴミ箱に向けて謝っていた。
「いきなり……するから」
「んー。やけど治るかなあって」
 残りの肉まんを食べながら、焦り混じりの鼻眼鏡をみつめてみる。一節、オレをみてからなにかをあきらめるように肉まんを咥えた。レジ台のいつもの椅子に座ってしまう。
「いや、そんなの、人にしてもらうわけにはいかないし。っていうか舌なんだからまず必要ないじゃないか」
「気にすんなよ。したかったから、したんだよ」
「し、したかったからって」
 挙動不審になっていく鼻眼鏡に、食い尽くした肉まんの紙を握りつぶして立ちあがる。鼻眼鏡の脇にあるゴミ箱へそれを放ると近づいた。ふと見上げてくる鼻眼鏡の眼鏡を抓んで取り外す。グレーの光彩が天井の照明を反射して緑と青へ偏光する。それを間近に見ながら、唇を重ねた。
「さ、帰るかな!」
 唖然としている鼻眼鏡に眼鏡を返して出入り口を見る。暗い夜道に人通りはない。いちおう確認しているつもりだけど。鼻眼鏡は眼鏡もせずに慌てていた。顔が赤い。肉まんはまた落ちていた。ため息混じりにそれを先ほど捨てられた肉まんと同じ場所へ捨てた。自分も謝る。
「もう、もったいないから」
「人が通ったらどうするんだよ」
「……隠れてするならいいの?」
「せ、せめて……」
 腰を下ろしてレジ下へ座り込む。鼻眼鏡の袖を引くとずるずると椅子から落ちるようにレジ下にきた。足を引きずるように立ちあがらずに歩を進めてくる。鼻眼鏡をレジ台に乗せて手ぶらになると襟を掴まれた。ひとしきり真顔でみつめられて正直焦った。意を決したかのような小さなため息が聞こえ、同時に襟を引かれた。
 柔らかいなあとさっき再度感じる。ついばみたくなるが、された手前、あえておとなしくしてみる。襟を掴んでいた手が髪を掻き、頭を押さえてくる。舌先で唇を舐められる。開口するとすこし差し入れてきた。
「んっ……」
 されるがままに舌を吸われていると、くつくつと気持ちよさに乗じて熱っぽい欲求も生まれてくる。ゾクゾクと耳の付け根がざわつく。触りたい。ときおりなでてくる、頭に回された手の感触が心地いい。酔うように熱が身体にこもってきたところで口と手が離れる。惜しそうに離れた鼻眼鏡を見ると似たような顔がそこにあった。互いに笑みを零す。
「な、もっかい……」
 ねだるというより、自分から顔を寄せていこうとして扉の開く音と、鼻眼鏡がめいっぱいオレを突き飛ばして立ちあがったのは同時だった。
「すいませーん! まだやってますか!」
「ああっ! はいはい、やってます!」
 レジ台の眼鏡をいつの間にか装着して鼻眼鏡が入ってきた若い男性にめいっぱい大きな声で接客しだす。オレはしりもちをついているところを件の客に胡乱な顔で見られていた。とりあえず何事もなかったかのように立ちあがる。熱っぽいのには恥ずかしさも混じっていた。本当に帰ろう。土間際にある荷物をとりに移動しようとしたとき反動を感じた。レジの影で鼻眼鏡が手を掴んでいる。
「あーよかった。花束を作って欲しいんですけど。いやぁ、結婚記念日忘れてて……なんもなくって」
「結婚記念日のプレゼントですか? えと、メッセージカードなんかもつけられますよ」
 非常に急いできたらしい、その男性に鼻眼鏡は接客を続けている。その中で手だけがオレを握っていた。軽く握り返すとそれを返事ととってか指が離れる。指先は熱かった。部屋の入り口へ座り込み、慌てながらも接客をする鼻眼鏡の姿をみながら笑みが零れた。