Novel

4話

 鼻眼鏡の状況で家に帰らざるを得なくなって、とりあえず家に向かうことにした。戻って母親がいたらなんていおう。まとめようとしても、どこかにひどい言葉が潜んでいて、考えては改める。その繰り返しをとぼとぼ歩きながらずっとしていた。
「うあ」
 家の前にきて、門構えの前に陣取っている姿に慄いた。中年のおばさんが、目の前で仁王立ちしている。とてもよく知っている姿に、きびすを返したい衝動に駆られたがそれはそれであとが怖いので、なんとか押しとどめた。たじろいでいるうちに、たたずんでいたほうが気づいて走りよってくる。あまりの勢いに、きびすを返すが、きっちり襟首を捉まれてのどが詰まる。
「来訪者置いて、どこいってたの!」
「結衣おばさん……苦しっ」
 ホールドが決まって、目の前がちかちかする。慌てて敗北宣言よろしく極められた腕を軽く叩いた。すぐにほどけてほっとするが、振り向いた先の結衣おばさんは眉間に皺を寄せてお冠だった。五十過ぎだが、髪をショートにしていて活発そうな格好だ。軽快な動きは年齢を感じさせない。
「あ、れ。母さんは」
「……帰ったわよ。まさか呼び出されるとは思わなかった」
 肩を落とした結衣おばさんに申し訳ないなと思ってしまう。考えてみれば家を出るほどのことじゃなかったのだ。考えもなしに飛び出したから、戸締まりだってしていなかった。
「鍵類はもってないし、あんたは出て行っちゃったしどうしましょう。って電話で泣きつかれてこっちに駆けつけたの」
「……ごめん」
「まあ、話は家できくね」
 そういわれ、促されるようにして自分の家に入った。ほとんど連行されているようなものだった。
「なんで、あの人うちにきていたの?」
「うちの親父が海外行く話を聞いてきたみたい」
 あがり込んだ家に馴染んで、ちゃぶ台際に座り込んだ。中学卒業あたりからこなくなったがそれまでは、ほぼ毎日ここにいたわけだから、母親よりも馴染んで当然だ。
「どっから話を聞いてきたんだか……まあ、あんたの父さんと同じ会社にいたからね」
 結衣おばさんが噂していたせいではないらしい。少々勝手な想像を申し訳ないと思いつつ。促されるように正面に座った。
「それで?」
 あまり機嫌がよくないのは呼び出しをくらったのもあるだろうが、あまり母親のことを好いていないからだろう。これは結衣おばさんそのものがぼやいていたので知っている。離婚の際のごたごたに、結衣おばさんは身内として巻き込まれたのがだいぶいい印象にならなかったらしい。
「いや、なんか、養子になるかって話がでてて、でもオレはイヤなんだよ。んで、あんまり考えなしにしゃべるからカッとなって」
「うん。まあ、そういうあんたの気持ちは仕方がないと思う」
 正直この考えに身内が賛同するとは思っていなかった。けれど、その賛同に口が止まらない。
「オレほとんど記憶にないのに、いきなり会う算段つけて、うちに来ないかっていわれて、理解できないよ」
「おばさんもわからない。んで、あんたのお父さんは?」
「今日くるから、っていってから外でてっちゃった」
 結衣おばさんが頭を垂れて、肺から全部空気をはき出すような大きなため息をついた。ちょっとだけ、母のしたため息に似ていてすこし焦る。
「まったく、あの子は……」
「ええっと……オレお父さんの居づらい気持ちもわかるからさ。それはいいんだけど」
「よくないわよ。父親なんだから、男としてのプライドは隠さなきゃ。……しょうがないんだけど。そうなったのは私のせいでもあるし」
 手の平で自分の額をぴしゃぴしゃ叩きながら結衣おばさんは顔を上げた。オレの祖父母にあたる親父の両親はわりと早くに亡くなっていて、結衣おばさんは親父が独り立ちできるまでがんばっていた時期がある。いい歳こいて弟好きなのはそんな二人きりの時期を過ごしてきて、親代わりという意識もあるからだろう。ただ、我の強い結衣おばさんにそんなに前へ出るタイプではなかった親父は圧倒されてしまった部分もあるようで、結衣おばさんは、親父の気の弱さは自分が原因だと感じている。元の性格が大半だと思うのだけれど。
「……勝手にオレを想像して、寂しくないからこっちにおいでなんて。家族を乗り換えましょうみたいな言い方が、すごくむかついたんだよ」
 結衣おばさんはオレではなくてちゃぶ台の上をぼんやり眺めていた。黙られてしまい、どうしようもなくなって自分も黙る。いってはいけないことをいってしまったのかと不安に駆られながら、沈黙を受け止めた。じっくりとした沈黙に顔を上げることで結衣おばさんは顔を上げた。神妙な面持ちなのは、考えごとをしていたからだ。眉間に皺がよっている。
「あんたの気持ち、分かるよ? 覚えてない、会いにこない人を母親として見ろ。なんて無理なのもね。でも、親なんだよね」
 鼻眼鏡と同じ言葉をいわれ、オレは口を閉ざした。結衣おばさんはそんなオレの様子を窺いながら笑いを誘うように抜けた笑顔を見せた。小さいころになく前にされた顔、変な顔ではないのだけれど、妙にツボにはいって泣く前に笑ってしまう。
「自分勝手なのよ。だれでもさ。あんたのお父さんだってそう」
「でも、オレの意見を聞いてくれるってことだろ」
「そういう見方もあるね。けど、私からいると無責任なことでいいのかと思う。子どもの意見を聞くなんて、聞こえはいいけど、その実自分はわがままを通して、あんたを放っていくってことなのよ」
 反論をしようとしたが、いなかった。頼りない親父の言い分は傍目から聞けばそう聞こえるのだろう。
「あんたになにかがあったときだれか最初に駆けつけるの? お父さんが海外へいったらそれは安易にはできないことなんだよ」
「うん。それは知り合いにもいわれたよ。……だから、母さんが養子にくるかっていう話をしたんじゃないかって」
 結衣おばさんはちょっとだけ意外そうな顔をしたが、それもまたすぐに納めた。相談するような相手がいたのに驚いたのか、その意見が子どもの立場じゃなかったことを意外に思ったのかはわからない。
「そうね。あの人だって、あなたの親だから今まであわなかったのは彼女なりの理由があったかもしれない。ある意味であなたのお父さんを信頼していたのかもしれない」
 嫌いと公言しているようでいながら完全に嫌いきれてはいないような口ぶりだった。一度でも身内になった相手だからなのか、オレという存在が結衣おばさんの感情を左右しているのか、好きだとか嫌いだとかそんなはっきりした感情じゃない想いがあるようだった。
「……大人は、あんたが思ってるより自分勝手で、それを簡単に正当化するもんなのよ。その想いが押しつけに聞こえたりもするし、放棄することが信頼にみえたりもするのずるいことなのよ」
 ほんのすこし、自嘲をこめて結衣おばさんが苦笑いをする。
「だいたい、なにもないところから自分を左右する答えを出すなんて短期間にできるわけがない」
「そう。それなんだけど、オレ日本に残る。来年は受験だろうし、なんにしても急過ぎるからちゃんと考えたいし」
 結衣おばさんに、鼻眼鏡の発想をほぼそのまま伝える。ちょっと調子に乗って、旅行代は自分で稼ぐなんていってしまったところだけは苦笑いだった。
「ん。……そうね。じっくり考えるのは手段のひとつだと思う。それで、あんたはこのままでいい? あの人の家族になって考える?」
「オレは、親父との家族の縁を切るのはイヤだ。だいたい、いまさら家族になっても、自分はそれを完全には受けいれられない」
 母親であり、生んでくれたのは確かなのだが、どうしても、大事なほうは長年一緒にいたほうに気持ちは傾く。気が弱かろうが、地味だろうが親父はオレの親父で家族だ。長いあいだオレを育ててくれたのはあの人でしかない。
「あんたはそれでいいのね?」
「うん。母さんには悪いと思うけど。もうさ、親を欲しがって寂しがる歳じゃないから」
「……さて、突然、家を出たこと謝ってちゃんと意志を伝えなさい」
 そういうと、小さな紙切れを差し出された。苦笑いを浮かべてしまう。ケータイの番号だった。渡されたタイミングからして母親のものだろう。ちょっとだけ、戸惑うが押しつけるようにもう一度差し出され、ゆっくりと受け取った。
「私はあんたのお父さんを説教するのでしばらくいるわね」
「あの、お仕事は?」
「ありますとも、一言いわなきゃ気がすまん!」
 血気盛んに大声を出しつつある結衣おばさんから逃げるように自室にひっこむ。大きなため息をひとつついてから、ケータイを弄った。