TOP > ノベル > Long Story > BL > 花・華・ハナ > 2話
玄関先で物音がして、居間から顔を覗かせるとあたりまえのように見慣れた親父だった。あのあとはだれかに絡まれることなく家に帰れた。平和的に家で過ごし、適当に晩飯を済ませてテレビを見ていたところだった。すこし気がめいる。別段、親父と仲が悪いわけじゃない。むしろ父子家庭であるから、ほかの家族より仲がいいぐらいなのだが、このごろはどうしても会話が薄くなってしまう。
「お帰り。残業? 遅かったから買って食べちゃったけど」
あまり頼りのある風体ではない親父はちょっとあいまいに笑っただけだった。台所ではなくオレの横に座る。どうやら食べてきたらしい。なんだか探るような視線で話があるのを察した。気まずさがふっと漂う。
「あのな、前、話した件なんだけど」
「ごめん、もうちっと答え待ってもらえない……?」
親父の言葉を遮るように懇願混じりに手をあわせて謝ると、親父はすこしいいづらそうに頭を掻いた。ちょっと困っているような仕草に早くも答えを出したほうがいいのかと不安になる。
「いや、その件な。ちょっと条件が増えたというか」
「え?」
困った顔はそのままの親父にあわせていた手を離した。なんだろう。と首を傾げて親父の次の言葉を待つが、容易にでてこない。だがその顔の真剣混じりな目に去ることもできない。
親父は技術者だ。物を作る人間でずっとそれでオレを育ててきた。手仕事の技術一辺倒でやってきたのもあって、新開発やデザイナーとデザインと技術のかみあわせをしたり、スケジュールの調整をしたりと、けっこう頼りにされている。開発チームのリーダーでもあるらしい。そんな中、海外の工場で技術向上を行う指導者として親父が名指しされた。赴任という形で海外の支部に行く。仕事を誇りにしている親父にとってチャンスでもあった。だが、渡航するのは親父自身だけの問題とはいかなかった。オレがいる。オレが今悩んでいるのはこの事項について決断を迫られているからだった。父親についていくのか、日本に残って暮らすのか。二つの決断。自分はこれを決められずにいる。そこにもう一つ条件が増えるというのは正直、焦った。二つですら決めかねてずっと考えているのに、もうひとつの条件で物が決まるとは思えない。
「あのな。……さんが」
「ごめん。聞こえない」
あまりにか細い声で、聞き落とした。おもわず聞き返すと、苦笑いをしてまるでごまかすように頭を掻く。本当にいいづらいことなのかと首を傾げている中で、親父は続けた。
「母さんが赴任の話を聞いてな。おまえを預かってもいいっていうんだが」
首がそのままもげるかと思った。首が落ちそうになって机に肘をついて、なんとか支え、ため息をつく。馴染みのない単語にものすごく理解するのに時間がかかった。『母さん』というのは本当に馴染みが薄い。親父と母親は自分が小学校にあがる前に離婚をしている。気がついたときには親父がずっと世話をしてくれていたし、今もそうだ。いくどか会ったことがあるとは聞いてはいるがその記憶もあいまいだ。事実、ずいぶん前に再婚をしているはずだ。
「それで、預かる場合。……母さんたちのほうの籍に移らないかって話になってるんだが」
話を続ける親父の淡白な口調に徐々にオレの眉間が深まっていくのがわかる。再婚済みの記憶にすらあいまいな母親のところへいまさらいって家族の関係になれるとは思えない。ただでさえ悩んでいるのになんでここへきてもっと複雑な話になるのだろう。カッとなった気持ちはどんどん下降して今度はどんよりと重くのしかかった。溶けきらないポタージュの底をかき回しているような気分になってきた。水かさが足りなくて溶けるわけがないのにかき回すしかない。あんな感じだ。
「なんでそんな話が出てるんだよ!」
「い、いや。まあ近所に住んでいるから、噂かなあ? 姉さんかなんかがしゃべってたんだろう」
そんなことを聞いているわけじゃないのだが、本来仕事以外のことはとぼけているような親父なのでとくに訂正はしない。ややこしくなる。結衣おばさんもおしゃべりにもほどがある。自慢の弟なのはわかるが、うちの親父は四十後半だ。自慢の弟にするには双方ともにだいぶ高齢な気がする。せめて自分の甥であるオレでも自慢して欲しい。が、自慢するような事柄などないと一蹴されそうだ。
「もし残ることを選ぶなら、そっちも考えてくれるか。個人的な意見だけど、姉さんの負担も軽くなるし……家族らしさといったらあっちのほうが」
「わかった」
それだけいうと席を立つ。机からさらうようにケータイを手に取ると親父の脇をすり抜けて自室のほうへひっこんだ。親父の顔は見ないようにしておく。たぶん、困ったような顔でこちらを見ているのはわかっている。
「くそー……」
二階の自室、ベッドの上で胡座をかいて意味もなくベッドの上に放り出したケータイを睨みつけていた。ケータイがどうというわけじゃない、なにもない空間を睨みつけるよりはなにか的があったほうが睨みつけやすいと思っただけで意味はなかった。気合いは入るが目は疲れる。結局、数分も持たず仰向けに倒れてあきらめた。
どうしようか。という考えが巡る。親父についていくのもおもしろそうだし、興味もある。けれど、学校には長いことつきあっている友だちもいるし、慣れている。どちらも決定打に乏しい。親父は決定をすべてオレに預けている。それも不思議なのだ。自分は親父が決定すればそれに従うつもりでいる。だけれどそれをする前に親父はその話を自分に委ねてきた。本人は行く。そう断言した上でおまえはどうする。ということだ。
「どうすりゃいいんだろう……っあっ!」
まとまらない思考を身体で表現して、ベッドの上でごろつき。そのまま落ちた。したたかに鼻を打って呻く。鼻がツーンとして涙目になっていった。新たにでた条件に関してどうしても納得がいかなかった。離婚の原因をオレは知らない。親父は語りたがらないし、語ってもなんだか抽象的な言葉しかいわないのでなにもわからない。結衣おばさんも似たようなもので、あからさまな語りたがらない態度にもう追求するのはあきらめた。
「母親ねえ……」
小さくつぶやいてみるが、なんだか薄ら寒い気分にしかならない。小さなころの世話は結衣おばさんがずっと世話してきた。授業参観も運動会もくるのはおばさん。観客の中で、おばさんはおばさんに過ぎず浮いていた。駆け出しの作家をやっていたおばさんは働く女だったのもあって、周りの主婦にはついていけないようだった。苦笑しながらオレに向かって謝ってきたこともあった。そんな感じだったから、小さなころは母親に憧れたころもあったが、いまさらなのだ。
「小さなころはそう思ったけどよー」
十七になって半年も過ぎ、もうそろそろ受験だのと不安の声も聞く。受験を重要視するほど勉強熱心なわけではないし、あまり真剣ではないけれど、重要なことだ。それに周りはだれが好きだとか、つきあっているとかで盛りあがっている。自分は好きな子がいるわけじゃないが、興味の方向は親よりも他人に移っている。
三つも四つもなにか抱えている気になって、大きなため息をついた。いつまでもうつぶせになっていても仕方がないと立ちあがる。鼻っ柱が痛くて撫でた。幸い血は出ていない。ほっとした反面、鼻先を弄っていて昼に会った花屋を思いだして半笑いになった。
「あっれ、変だったよなー。風呂……はいろっと」
悩み事は解決していないのだが、ちょっとだけ気が紛れた。つかえがとれたわけじゃないが、気が休まったので部屋をでた。
花の香りってとくにしないものだと思っていたがところ狭しと並んでいるとそれなりに香ってくるものだと感心した。
「なんで……居るの?」
もしかしたら、と思っていたが次の日もあたりまえのように鼻眼鏡をしている鼻眼鏡の疑問に答えることなくケータイを弄った。
「なんか、居心地がよかったから」
小さなため息が聞こえたがそれを無視してケータイ弄りを続ける。今日はきちんと授業を受けてからここにきた。あいかわらずの鼻眼鏡は今日も花の世話をしている。客が入っているか怪しい。ケータイを弄るのも飽きて店先の覗ける居間らしき部屋で寝そべっていた。忙しいというよりは、忙しくしているのが妙に落ち着きのない感じにみえてそんなにあくせくしなくてもと声をかけてやりたくなる。
「なあ、客ってくるの?」
彼もさすがにすることが尽きたのかレジ際の椅子に座ってぼんやり外を眺め始めたので話しかけてみる。声に反応して鼻眼鏡は椅子を外からこちらに向ける。
「いちおうね。以前のオーナーのときのお客さんもいるし、配達とか会場でのフラワーアレンジとかもやっているんだよ」
店先で花を売るだけが仕事じゃないのだ。考えてみればそんな気もする。学校の行事やらの花飾りはこういうようなところから手配しているのか。気にもとめてなかったので気づかなかった。
「え? ああ、前もここ花屋なのか」
商店街の端ということもあるし、考えても思いだせない。もっと地味な店だった気がする。いや、店自体は今も地味なのだ。花は鮮やかなのだが、それ以上の派手さはない。良くも悪くも地元密着型の個人商店の域をでていない。
「あのね、地元ならもうちょっと覚えておこうよ」
呆れた声音でため息をつかれてカチンとする。確かに地元でよく通るけれどいまいち記憶に残らないのは感心がないからだ。普通の人が接客をしていたら今でも気に留めていなかったかもしれない。助けられた経緯があったとしてもだ。
「そうはいうけどさー。オレぐらいの歳が花なんて買わないよ」
「あー、そりゃそうか」
合点がいったようで激しく頭を上下してうなずきながら納得しているのをみて、鼻眼鏡本人は花を買うことに抵抗のないタイプなのかなと想像する。顔立ちはわからないがまあ軽薄そうな調子だからもしかしたら女にプレゼントとかやったことがあるのかもしれない。
「……そのさ、眼鏡はしっぱなしで出先にもいくのか?」
「当然! トレードマークだから!」
「いや、偉そうにいうことじゃねえだろ……」
偉そうに胸を反らせている鼻眼鏡に大きく呆れてため息がでた。よくもまあ、前の店長もここを譲る気になったものだとあきれはてる。とはいえ、悪い奴という印象はかけらも沸かない。そういう部分が風体がおかしくても客やらが怪しまないのかもしれない。
「まあ、これをしてないとちょっとね……」
「ん?」
なんでと問おうとしたところに中年のおばさんが入ってきた。みえる場でぐうたらしているのも失礼だとさっと身を起こしみえない場所へ移動する。
「いらっしゃいませ」
「聡くん。いつもどおりの眼鏡なのねー。あいかわらず、似合っているわ」
似合う、似合わないというものなのかあれはと疑問を覚えてしまう。顔立ちなんてまったくわからないじゃないか。能天気そうな声のおばさんはどうやら常連のようで、鼻眼鏡に対してなんの抵抗も感じていないようだった。
「弥生さんは、今日はどうしたの?」
こっそりと様子を窺いに覗いてみる。年齢は結衣おばさんぐらいか、五十ちょいといった風の女性だ。ちょっと暗めの色だがきっちり着込んでいるところをみると、どこかへ出かける途中なんだろう。
「あのね。伊藤さんがねぇ。病気しちゃって。お見舞いにいくとこなの、小さくていいから花束を作ってもらいたいんだけど」
「お見舞い用ってことですか。ええっと」
「できればね、ちょっとかわいい感じで束ねて欲しいのよ。けっこう、人から物をもらっているみたいでね。私も一度は見舞わなきゃって思っていたんだけれど、忙しくって」
早口でその弥生と呼ばれたおばさんはまくし立てた。慌ただしいものだが中年のおばさんなんてそんなものだと半ば納得しつつ、覗いてみるとそのマシンガントークに鼻眼鏡が右往左往していた。花のあるバケツの前でうろうろしている。だいじょうぶなのだろうか。と心配になった。
「その伊藤さんって若いの?」
隠れているのを止めて、戸口から顔をだすとおばさんはほんのすこし驚いたような顔をしてこちらを見た。ほかに人がいるとは思っていなかったのだろう。ほんのすこしだけ上から下まで眺められたが気にしない。
「なあ、いくつぐらい?」
「そうねえ、四十後半だったかしら。フラダンス教室の同じクラスでね。とてもおしゃれさんなのよ。私も見劣りしないよう気合いをいれてきたのよ」
フラダンスとはだいぶ華やかでなんて体力を使う趣味を持っていると感心した。正直いって体育も面倒くさい自分としては、自ら選んでそんな趣味は持たない。
「へえー。じゃあ、明るい色とか好きなのかな」
「綺麗なオレンジの衣装とか着ているわ。そういえば」
おばさんの言葉に合点がいったか鼻眼鏡は小さくうなずくと、バケツの中からかわいらしいオレンジ色のバラを数本とりだした。それに引き続いて白色のチューリップみたいな形の花を取り出し、小さな白いつぶつぶした花も添えた。あとはそれを大きめの葉でくるんでおばさんのほうへ差し出した。
「こんな感じでどうです?」
「あ、いいんじゃない? かわいいわね」
「マーロンという品種のバラとこの白いのはピッコロホワイトっていうトルコキキョウです。あとはかすみ草と葉っぱで。あんまり大きいとかさばるので本数は少なめで、いちおう本数はきりのいい感じにしておきますね」
「それでいいわ。かわいいし」
「はい。ありがとうございます。ラッピングしますね」
「うん。お願い」
そんな会話をこなしながら、バケツに浸して茎をそろえ切り、レジ台に持ってくるとラッピング用の紙を引っ張り出してきた。ごそごそやりだすとオレのいる場所からはみえないのでとりあえず、鼻眼鏡の背中を眺める。リボンや紙を弄り、あっという間にオレンジ色の花束を作っていた。
「はー……」
代金をもらいうけ、おばさんを見送ってから鼻眼鏡が大きくため息をついて椅子に座り込む。緊張していたのか一息ついたのか脱力しているようだった。素早い中にも丁寧さが必要なのは見て分かる。思っているより神経を使うのだろう。
「なんかすげー」
手際よく花束を作っていく姿を見て正直自分はすごいと思った。さっきの花束で分かったのはバラぐらいだ。トルコキキョウだとかなんだか聞いたことがない。それをすらすら説明し、想像つかない綺麗な色合いで束ねて薄いピンクのリボンを結んだのだ。靴紐だってままならない自分にとっては驚くべき神業といってもよかった。
「いや、すごくないよ。どっちかというと、少年のほうがすごいよ」
体ごとこちらを向けて鼻眼鏡をすこしかけ直していた。なにがすごいのか分からないので首をかしげる。なにをしたか覚えてない。
「あんな初対面で、しゃべれるんだね」
「いや、普通だろ」
「しゃべるのって難しいじゃないか」
意味がわからず、首を傾げてしまう。
「脈絡なくてもなんか聞けばいいんだよ。だいたい返ってくるし、返ってきたら会話になる……だろ?」
自分のことを振り返りながらいってみるが、自分でもピンときていない。
「しゃべり過ぎて、いわなくていいこととかいっちゃうけどね」
考えていないのでたまに無神経なことまで口走る。親父なんかは苦笑いをしているが、友だちなんかだと気まずい空気にさせたりしている。下手をするとケンカじみたもの言いになってしまい、別の友だちに止められたりする事態になる。こればっかりは懲りずに気をつけていてもやってしまう。
「ちゃんと、ものがいるのはいいことだと思うよ」
「鼻眼鏡はうまくいないのか」
なんだか濁った言い方におもわず口に出してしまって後悔した。鼻眼鏡の動きがほんのすこし反応して、しょっちゅう感じる気まずい空気に変化する。
「あ……」
謝ろうかと口を開いたところで、鈴の音がして時計が時間ちょうどを指したようだった。鼻眼鏡が背後を望むように身をねじって時計を確認する。自分もその動作につられて時計を確認した。夕方と夜の合間といった時間帯。外を見てみると日が落ちてきて暗くなっているところだった。
「帰らないの?」
「ん? まだいるよ。家に帰ってもだれもいないし」
鼻眼鏡は立ちあがって、プレゼント用の包装紙を片づけ始めた。ハサミにセロファンといったものを綺麗に片づけていく。すこし空気が緩和したのは、鼻眼鏡が話題をそらしたからだろう。
「共働きなの? 両親」
「あ、オレ、母親はいないから。親父の方は、仕事で遅いからさ」
ものすごい勢いで振り向かれ、その勢いにおもわずたじろいだ。このことをしゃべると大抵は同情的な顔をされるが、今回は鼻眼鏡のせいで顔色はうかがえない。だが、変な風に謝られるよりは事実と自分の気持ちを伝えたほうがいい。
「離婚ね。つってもオレは小さかったから、ピンとこないんだ」
「あー、うん。そっか」
ばつが悪いのだろう。首をかしげて焦っている。しまったはずのハサミを意味もなく引き出しから取り出して、もう一度しまっていた。慌てぶりがおかしくて笑いそうになったが、それは気を使ってくれた相手に悪いと我慢する。自分は気にしていないのだが、周りは気にする事柄だから仕方がない。
「気にするな。っていうけど、みんな気にするね。けど。なにかしてもらった記憶もないからなんとも思わないんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうもん。変なたとえだけどさ、犬飼ってないのに犬の話をされてもわけわからないのと一緒」
犬と母親を同等に扱っているのも変だが、そうなのだから仕方がない。母親のことをしゃべっていたら昨日の親父の話も思いだしてしまった。養子になんて考えられない。いまさらなんでそんなことを言い出してきたのか。
「……だから、いまさらさ」
「ん?」
おもわずつぶやいていたらしい。落ち着きを取り戻したのか鼻眼鏡は立ちあがって床掃除をしている。外は徐々に日を落としてきている。話すまいか話すか、逡巡する。友だちにも話をしていない。海外へ行く可能性をいうと茶化されるだろうし、自分のことながら流されやすい。あまり同年代の意見は聞かないほうがいいと黙っていたのだ。ただ、鼻眼鏡は同級とは違う。少なくとも年上ではある。ちょっとは決断の足しになる意見をいってくれるかもしれない。
「親父がさ、仕事の都合で海外に行くことになってて、それについていくかどうかを決めるようにいわれているんだ」
「へえ」
気の抜けた返事を返しながら、ちりとりから掬ったゴミをゴミ箱へうつし顔を上げた。聞いてないわけではないようで、立ちあがった状態でオレのほうを一瞥してきた。妙におかしくて、深刻にならない。もういいや、意見というよりしゃべってしまいたい。答えが見つからない状態が実のところつらかった。
「たいへんだね。どうするか決まってないのか」
オレの話を聞いて鼻眼鏡はうなずくだけだった。
「……たいへんっていうか、なんかわかんないんだよな」
土間というか店先に足をぶらつかせながら天井を仰ぎ見る。店構えはだいぶ年季がはいっているようで天井には濃い染みが転々と染みていた。
「親父もさ、どうせならついてこい! ぐらい、いえばいいと思うんだよね。なんでオレに決めさせるんだろ」
親父に分かるような立派な目標や大事な物は存在しない。褒められたことではないけれど自立が見てとれるほどしっかりしているともいないのに、なぜか親父はそうしなかった。異動の辞令のあらましをオレに伝えて、自分は行くつもりだといっただけだった。
「信頼しているからじゃない?」
「え、なんで? どうみたってしっかりしてないじゃん」
ちらりと目を逸らしたのはどこか納得したからなのだろうか、鼻眼鏡は首をほのかに傾いで小さくうなずいているようだ。事実だが少々、腑に落ちない。
「そういう大切なことを真剣に考えて答えを出すだろうって信頼してくれているんだよ」
非常に恥ずかしい。盛大に頭を掻いてみたが、むず痒さはおさまらない。実際親父がどう思ってオレに決定を投げてきたのかは判別できないのだが。
「そうやって、話を聞こうとしてくれるだけいいよ。うちは……」
「え?」
小さなつぶやきはほんのすこししか聞こえてこず、なにをいったか聞き返そうと顔を上げたとたんに無遠慮に店の扉が開いた。完全に見ていなかったせいで、隠れ損ねた。
「あー、本当だ。マジで鼻眼鏡だ!」
「おかしいー」
騒いでやってきたのは三人組の女生徒だった。ジャージ姿なところを見ると部活帰りなのだろう。もちろん、うちの学校の生徒だ。ジャージの腕に線が入っていて同級だとわかる。
「あ、いらっしゃい」
「普通に接客するんだ」
「おもしろいこといわないの?」
「眼鏡はちゃんと度が入ってる!」
女生徒三人組は騒ぎながら鼻眼鏡に詰めよるようにして好き勝手に観察し勝手なことをいっている。鼻眼鏡のほうは完全にたじろいで困っていた。腰が逃げている。気持ちは分かるけど。この三人組、主にしゃべっているのは二人で、おそらく鼻眼鏡を見にくることが目的なのだろう。ここが花屋であることはあんまり考えていないようだ。店先で騒ぐのはいかがなものかと思いつつもどうすればいいのやら。
「クヌギもみなよ」
「いいよーもう。失礼だからさ」
押し出されるように後ろに居たらしい三人目が前に出てきた。遠慮げなのはいいが注意して欲しいよな。クヌギと呼ばれた彼女のほうはオレに気づいて鼻眼鏡よりもこっちを見た。
「あれ、藤井じゃん」
「ん? あ、戸川じゃん」
クラスメイトだ。よく教室で騒いでいる集団の中で笑ってる明るいタイプ。ときおり、抜けたことをしては周囲にも笑われていたので見知っていた。戸川は二人組のきょとんとした顔に気づくことなくこちらのほうへ寄ってきた。どうやらむりやり連れてこられたようで、知っている顔を見て安心したようだ。ほっとした顔にちょっとほほえましくなる。
「なんでここにいるの?」
「ん? ちょっとね。最近、知り合って仲良くなった」
まさか不良に絡まれたとはいないので、濁した言い方にする。追求するつもりはないらしい。鼻眼鏡は最初こそ見ていたが今は残った二人組のマシンガントークに巻き込まれて完全に腰が引けていた。
「なにしにきたん?」
「あ、なんか二人が変わった店員がいるっていうからきたんだけど……」
遠慮ぎみにちらりと鼻眼鏡のほうへ視線を泳がす。まあ、あれで外にいられたらびっくりするし目立つ。同世代ならおもしろがって見にくるだろう。オレだって知り合う前に話題にのぼれば興味は湧く。見にいくかはノリ次第だ。
「おもしろいのは確かだけど、店なんだからさ。せめてなんか買い物しろよ」
なにも買わない自分がいうのもあれだと思いつつ。さすがにやかましい。せめて店に利益でもあげないとかわいそうだ。二人組が意外そうな顔をしたが、鼻眼鏡はああ、と声を上げて納得したようだった。
「えー、でも花なんて買っても、お金あんまり持ってないし」
「一、二本でかまわないよ? 高いのは避けて選んであげるから」
愛想よく二人組に話しかけるとどうやら二人おもしろがってきたわりに照れがあるようで、二人で顔を見あわせながらおろおろとしていた。
「うん。そうだよ。花屋だし……あんまり迷惑かけるのも変だし」
戸川も思うところがあったのかほっとした顔で賛同する。ひとり乗り気じゃなかったようなので、騒ぐ二人に不安を覚えていたのかもしれない。二人が立ちあがって花を選ぶ鼻眼鏡の背後ですこし戸惑いつつもそれを眺めているのをみていた。
「戸川はいいの?」
「え? そかぁ、私も買おうかな……」
そういって背後に向いて花を物色しだす。自分も立ちあがってなにかないか探った。それにたいして鼻眼鏡が近寄ってくる。ちなみに自分は買う気はない。帰っても親父だけじゃ、上げたところで空しいだけだ。
「上の段のほうはちょっと高いから中段ぐらいまでで選んでね」
「だって、戸川はどれがいい?」
「なんかいっぱいあると迷うよね」
視線を動かしながら戸川が吟味しているのをみて真似してみる。花は色や形がさまざまで確かにどれを選べばいいのわからない。
「あのバラは? 薄い紫色っぽいの」
「え、どれ?」
戸川と指を差し合いどれかといいあっている横で、二人の花を選び終えた鼻眼鏡がすっと出て指を差していたバラを一本抜いた。
「やっぱ一、二本で映えるとなるとバラだね。パープルハートっていうんだよ」
よく見ればほかの二人も色合いの違うバラを持っていた。そこはかとなく嬉しそうなのは、している眼鏡は変でも物腰が普通なので年上の男に感じるのだろう。それぞれが納得しているようでいそいそと財布を出している。その最中で鼻眼鏡は小さな白い花がついた枝を数本取りだして彼女たちから花をもらい受けると小さくラッピングした。
「あーかわいい」
「かすみ草とラッピングはおまけ」
手際の良さに呆然としているところに、お金を受け取った鼻眼鏡がこちらを向いてちょっとのけぞる。女子三人は思いのほかかわいらしくラッピングしてもらった花に満足なのか互いに見せ合いしながらほくほく顔だ。戸川も戸惑い気味だったのがそれなりに嬉しそうである。
「さて、もう遅いから帰りなさいよ。そろそろ閉店だしね」
「わ。もうこんな時間?」
「みんなは駅?」
「あ、そうです」
ディバッグに財布をしまいながら三人で慌てて帰り支度をしているさまを見ながらオレもそろそろ帰ろうかと思案してみる。カバンを畳部屋から引きずるように引っ張り出して背負っているところで背を叩かれた。
「送っていってあげなさい」
「へ?」
「女の子だけじゃ危ないでしょ」
背中を押されてみれば、戸川以外は先に店から出てしまっていた。戸川もこちらを伺っている。正直、面倒くさい。だが、文句をいう前に戸川が出て行った二人組を追いかけて店を出てしまったので自分も慌てて追いかけた。
「まってま……だっ!」
外へ出たとたんに目の前をなにかが遮って止まれるわけもなく激突してしまった。慌て過ぎたと一歩下がると戸惑い気味の見知らぬ男が立っていた。横で戸川がぽかんとしている。ぶつかるとは思わなかったらしい。頭からぶつかってしまった。
「すいまっせん……」
脇をすり抜けるついでに謝りながら通り過ぎる。大き過ぎるサングラスにいかにも素性を隠したいような目深にかぶった帽子は、不審を振りまいているとしか思えなかった。
「なに、やってんのよー。怪しい人にわざわざぶつかるなんて!」
「いやいや、好きでぶつかったんじゃないし」
同じことを思っていたようで、戸川が引き返してきて引っ張られる。たたらを踏みながら脇目で観察する。ぶつかられたことに対してなにも感じていないのかすこしばかり花屋を覗いてからそのまま歩を進めていた。
「あの人さ、さっきもいたんだよ。うちらが入る前にお店の前にいて、お花屋さんに用事があるのかと思っていたんだけど違うのかな」
花屋というのは入りづらいのは分かる。さらに店員が怪しい眼鏡をかけているわけだから普段以上に難易度は高いだろう。だが、そんなに長く路上でたむろしているもんだろうか。話し込んで二、三十分は立っている。しかも、客はすべて捌けているのだから、遠慮なく入ればいいのに通り過ぎてしまった。もう一度振り向いてみるが姿はみえない。
「早く行こうよ。二人先に行っちゃった」
見れば二人は商店街の中ほどを歩いている。親しくないから気にしないのだろうが、戸川のことぐらい気にかけてやればいいのにと半分呆れた。とはいえ、放っておくのもよくない。さっきの不審者の目的が花屋ではない可能性もあると考えると、鼻眼鏡のいうとおり戸川たちだけで歩かせるのは危ないかもしれない。
「行くよ。ちょっと走ろう」
うなずいた戸川を先に走らせて、自分は後ろを振り向く。鼻眼鏡らしきエプロンの影がみえた。閉店作業をしている姿はとくに周囲を気にしている様子はない。その近くで通り過ぎたはずの不審な男がどこかで方向転換したのかこちらに向かう仕草をしていた。
「早く!」
焦った声に慌てて戸川のあとを追う。なんだか、気持ちが悪かった。
週休二日の喜びは朝に吹っ飛んだ。昼間際までベッドでごろつき、遅起きを楽しんでいたオレが居間へ下りたとき。目についた親父がなんともいない困った顔でオレを手招きしてきた。
「あのな。今から母さんがくるんだって」
「は?」
危うくコップを落とすところだった。なにとか落とすことを阻止すると、汲んだばかりのオレンジジュースを煽る。すっぱさがのどに染みて軽くむせてしまった。
「な、んで」
親父は困った表情を変えることなく頭を掻いた。唐突な連絡に戸惑っているようだった。
「この間の養子の件、話しただろう。それに関してちゃんと自分からいいたいってことらしいんだ」
まだ、ここに残るとも決めていないのになにをいいたいのだろう。と首を傾げる。顔立ちもなにも、なんだか突然の来客みたいで嫌だった。が、口には出さない。
「むう」
なんだか、声にならないうめきが漏れる。眉根がよったのをジュースでごまかした。断るには自分の意志は宙ぶらりんで、適当に答えるのは親父の意思をないがしろにしている気がしてやりにくい。鼻眼鏡の言葉を聞いてなかったら、適当に決めもしたのだけど。推測とはいえよく思われていることが嬉しくないなんてはずはないのだ。
「午後からくるそうだから……じゃあ、出かけてくるな」
「えっ! なんでだよ。居てくれよ」
答えを待つ前に立ちあがってそそくさと親父は消えていってしまった。玄関先まで追いかけようかとも思ったが止める。玄関の扉が閉まる音がして力が抜けた。なくなってしまったジュースを再度注いで、今のちゃぶ台前に移動した。
「よくわからん……」
親父のことがだ。今、追いかけなかったのは無理強いするのが親父の負担になるからだ。正直いって男女の仲とか意味がわからないのだが、親父はまだ母さんのことが好きらしい。結衣おばさんのぶつくさいっていた受け売りだけれど、多くを語らない姿を見ていると、結衣おばさんの言い分もわかるのだ。憂鬱な気分でため息をついても解決しない。どんどんテンションの下がっていくのがわかる。身体も気持ちも重くなったが仕方がないと、自室で着替えることにした。