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白いイカ足

 俺は憂鬱だった。藤沢で江ノ電に乗るとき、いや、東京駅で東海道線に乗り換える時、いや、千葉の下宿先のアパートを出る時から、俺は引き返したかった。

だが、俺はもう江ノ電に乗ってしまっている。いっそのこと降りないで鎌倉まで乗ってってやろうか。

俺は今、実家に向かっている。半年降りの実家だ。そして、俺は帰りたく無いのだ。俺は別に両親に虐待されて育った訳でも、えらく夫婦仲が悪い家庭で育った訳でも何でも無い。

申し分の無い立派な親とは決して言えないし、例えば買ったばかりの携帯電話をいじっているうちに、俺の携帯に10件も着信履歴を残してしまうような間抜けな親であるが、それでも愛すべき親である。

俺が帰りたくないのは、親のせいではない。俺を迎え入れるあの家の臭いが嫌なのだ。俺の家は湘南の海岸沿いにある。海水浴場の側で磯焼き屋をやっている。名物はイカ焼きだ。

そして、俺はイカが嫌いだ。大嫌いだ。

どうして、イカが嫌いになったのか。それは幼稚園前だっただろうか。あんな消化の悪いものを年端も行かないガキに食わせる親もどうかしてると思うが、イカを食って俺は酷い下痢をしたことがある。けれどもイカ嫌いの理由はそれだけじゃない。
その数週間後、俺が昼寝をしている所に、たまたま遊びに来ていた従兄弟が悪戯で俺の顔に生きているイカを落としやがったのだ。驚いて目を醒ました俺をイカのヌルヌルが襲い、吸盤が俺の口と鼻の穴を塞いだ。右の鼻の穴はかろうじて無事だったが、運の悪いことに、その日風邪をひいていて、そっちの鼻は詰まっていた。
顔の皮膚を吸いながら、うごめくイカの足の感触はひどくおぞましいもので、息の出来ない俺の意識は徐々に遠のき、俺は明らかにお花畑を見たのだ。お花畑の真ん中を流れる小川の向こうにモンペ姿の女性が立っていた。間違いなくあれは写真でしか見たことのない、戦時中に死んだという俺のひいばあちゃんだった。
幸いイカが動き、俺の左の鼻の穴が吸盤から解放され、俺は一命をとりとめたが、イカの粘液が鼻水のようにダラダラと顔にまとわりついていた。それを見た従兄弟は、ひとかけらの罪の意識も抱かずに、「チャラリー、鼻からイカ汁ー」と歌いながら俺をからかった。俺はそれ以来、嘉門達夫がちょっと嫌いである。
そして、それ以上にイカが嫌いになった。
なのに、俺んちのイカ焼きはテレビの取材が来たほどの名物であり、幼稚園から高校までクラスの誰もが俺がイカ焼き屋の息子であることを知っていたのだ。しかも、俺の姓は五十嵐である。しかも名前は純雄(すみお)である。五十嵐という奴のあだ名は大概、イガとかイガちゃんであるが、それが濁らなくなるのは当然だった。
しかも、イカスミを連想させずには名前をつけやがった両親を、俺はその点においては酷く恨んでいる。
もちろん、俺はそれが、どんな暗喩を含むのか知らない年から「イカ臭い」とからかわれ続けてきたのである。
想像してみて欲しい。俺はイカが嫌いだ。死ぬ程嫌いだ。その俺がイカと呼ばれることは、普通の人にとって、ある日突然あだ名がギョウ虫とかサナダ虫になるようなものだ。つまり俺の幼稚園から高校までの14年間は、ギョウ虫呼ばわりと同等だった訳である。
だから俺はわざと少し遠めの大学を選んで受験したのだ。大学では俺から言い出さないかぎり、俺んちがイカ焼き屋であることなど知りようが無い。もちろん俺がそんなこと言い出すはずがない。俺は出身が江ノ島であることだけは大学の奴等に話している。
千葉の大学に通う、千葉県民だったり、埼玉県民だったり、都民だったり地方出身者だったりする奴にとって、湘南と言えば、サザンである。真夏のアバンチュールである。俺は大学にいる限り、クールな湘南ボーイなのだ。決してイカ焼き屋の息子ではない。
俺には分からない。生きているうちはヌメヌメ、グニュグニュしていて気色悪いし、焼けば異臭を発するし、噛めば固いし、消化は悪いし、あんなものを、他の奴等がウマイウマイと食っていることは俺の理解を超えている。お前達よ!目を覚ませ!
イカは磯野家にだっていないじゃないか!
もちろん、波野家(タラちゃん家)にも伊佐坂家にもいないではないか。あのほのぼの磯野家には馴染まない、グロテスクな容姿であることを長谷川町子は気付いていたに違い無い!
二両編成の素朴な電車は細い路地のような線路の合間を抜けて、駅に止まった。着いちまったよ。尻に鉛が入っていそうに重い腰を上げて、俺は電車を降りた。
駅から家まではけっこう距離がある。一歩一歩歩むごとに、あの臭いが近付いてくる。例えば、公園の凄く汚れた公衆便所の側でホームレスが寝起きしているのを見たりしたら、「良くあんなところに住めるな」と思うだろう。俺にとって、あの家はそんな感じだ。
家に近付くと俺を迎えたのは、やはりあの臭いであった。俺は絶望した。
茶ぶ台の上は以前と変わらず、海産物のフルコースだった。サザエの壷焼き、タタミイワシ、アサリの酒蒸し、アジフライ、マグロの角煮、海苔のつくだ煮。そして、やはりイカの一夜干しに、イカそうめん。それに、いつもと変わらない、キュウリとキャベツを切っただけのサラダ。ガキの頃からサラダと言えば、これにたまにトマトが入るくらいだ。
俺んちの食卓は何かがおかしい。まず、肉を食わなすぎる。高校生の頃、「もっと肉が食いたい」とオフクロに言ったら、「あら、魚は体にいいのよ」と返された。けれども、母よ、健康のことを考えるなら、
もっと、緑黄色野菜を食わせろ!
せめて、サラダにブロッコリーかアスパラガスを入れる努力をしろ!
テレビでは、ドラムロールが続き、みのもんたと、回答者の顔のアップが交互映し出されている。「みのもんたの鎌倉の家は凄いらしいぞ」なんていうことを話していたオヤジがわざとらしく、
「ところで、純雄、大学出たらどうするつもりなんだ」
と聞いて来た。暗にこの店を継いでもらいたい、と言っているのは明白だった。
「この店なら、継がないよ」
「お前、長男だろう」
「嫌だよ。俺はイカが嫌いなの。家だったら、暁(あき)に継いでもらえよ。婿養子でももらってさ」
「そういう訳にはいかないだろ」
「なんでだよ。オヤジだって婿養子じゃないか」
半年前より、さらに毛の薄くなったオヤジは困った顔をした。もう後頭部にしか毛が残っていない。オヤジにとって、婿養子の跡継ぎが婿養子じゃ親戚で立場が無いことぐらい分かっていた。
「暁にだって、やりたいことがあったりするだろうし」
「なんだよ。俺のやりたいことはどうでもいいのかよ」
当事者の妹の暁は、塾に行っていていなかった。口の減らない暁は俺にとって天敵なので、この場にいないことに安堵を覚えていた。
「長男っていうのはそういうものなのよ」
オフクロが口を挟んだ。
「お母さんねえ、ずーっと、○○教入ってるカオリ義姉さんから、真言宗じゃだめだ、長男が跡を継がないから、長男が家を出たり、病気になっちゃったりして、家が廃れてしまうから、ってずーっと、布教されてきたのよ。でもうちの純雄はそんなことありませんから、って言って断ってきたのに、あんたが跡継がないと、断る理由が無くなっちゃうじゃない」
「知らねえよ」
オフクロの理屈はいつもどこかずれている。
「ああもう、お母さんも○○教入らされちゃうわよ!壷売り歩くわよ!昼間っから、人の家、布教して歩いちゃうから。それから、藤沢の駅前で集団で神様について歌っちゃうわよ。ギターの伴奏で!どう?そんな中にお母さんがいるなんて」
「知らねえよ。勝手にやってろよ」
そう言うと俺は席を立った。
「もう、お母さん歌っちゃうわよ!藤沢だけじゃなくて、横浜とか横須賀とか、相模原あたりまで出張しちゃうわよ!」
俺の背中に向かって、オフクロは叫び続けていた。相模原は遠いだろ。アホすぎである。俺はたぶん、ここんちの子じゃないんだ。いや、こんなイカ臭い家の跡取りでなんてあってたまるか、そう思った。
その晩、俺は喉が乾いて目が醒めた。明らかに酒屋の景品のキリンのマークの入ったコップで冷蔵庫の麦茶を飲み干すと薄明かりの向こうに、誰かがいた。一瞬ビビったがなんてことはない、鏡に映った自分自身だった。鏡には、情けない程ビビリである俺自身に、バツの悪い表情を浮かべている俺がいた。
鏡はまだ新しいが、下の方に白い字で「藤沢漁協」と入っている。知り合いの漁師にでももらったんだろう。「藤沢漁協」の文字の上にぼんやりとした輪郭で映る俺自身の顔を見つめた。こう見ると俺は驚くほどオヤジに似ていない。オヤジは丸顔でガッチリしていて、こぼれるようにまんまるい目をしている。
前に、つぶらな瞳で可愛いと若い女性に言われたと喜んでいたが、俺に言わせればあんなの、ちょっと痩せた上島龍平だ。
俺は細面で切れ長の目で日本的な涼しい顔をしている。俺は顎に手を置いて少しポーズをつけた。うん、俺って結構イケている。せっかくイカの呪縛から逃れたというのに、理系で男ばっかりで、出会いに恵まれていない大学の環境を少し恨んだ。
「チャラリー、鼻からギューニュー」
一瞬また、ビクっとしたが、オヤジの携帯にメールが入っただけらしい。こんな夜中に迷惑メールだろう。それにしても、嘉門達夫の着ボイスはどうかと思うぞ。
ふと、鏡から白いパイプのようなものがぼんやりと出ているのが見えた。パイプではない。良く見るとそれは、濡れていて、ぬらぬらと光り、吸盤があった。
イカの足だった。
俺は鏡の前で、動けなくなった。さらに、鏡に映っているのは、さっきまで映っていたちょっとビビリの涼しい顔の男ではなく、巨大なイカだった。
血の気が引いて行く。コレは夢だ。夢に違いねえ。
巨大なイカ男の肩(というか甲と言うべきか)越しに、普通のサイズのイカが浮かんでいるのが映っていた。普通サイズのイカは足をクネックネッと二回振ると、喋りはじめたのだ。丁寧に墨の噴出口が動いてやがる。
「王子」
俺はイカが喋ったことに、気を取られて、言葉の意味を理解できずにいた。
「王子」
おれの中で、オウジという音が王子に変換されたが、なんのことなのか分らない。
「あなた様は、我がイカーンイカイカ星の王子なのです、御会いしとうございました。」
夢だ。これは絶対夢だ。帰って来る途中、昼飯に寄ったラーメン屋で筋肉マンを読んだせいだ。筋肉マンが筋肉星の王子なことが、絶対影響している。
「申し遅れました。私、イカーンイカイカ星、王様付き侍従、ホタル3世でございます」
北の国からみたいな名前しやがった普通サイズのイカは、ペコリと礼をして続けた。
「イカーンイカイカ星はレティクル星の近くにあります。夢見がちだった、あなたのお母様は、イカイカ星の王、モンゴ13世とチャネリングすることに成功しました。そして、精神的な交流はいつしか愛に代わり、あなたのお母さまは、イカイカ星に招かれることになりました」
チャ、チャネリング……。ズレまくったあのオバハンなら、若かりし頃そんなことをしていた可能性もある。
すると鏡の向こうの景色が変わった。どこかの宮殿を思わせるシャンデリアが吊るされた西洋風のホールの中で、若い女性と巨大なイカがダンスを踊っていた。女性は真紅のドレスに身を包み、うっとりと、とろんとした幸せそうな目をしながら、イカの方を見つめていた。
オッ、オフクロ!
今でこそ皺だらけだが、古いアルバムの中のオフクロはかなりの美人だった(とは言え相当の変人だった為にあまりモテなかったようだが)その顔と同じ顔をした美しい女がイカと視線をからみ合わせながら、リズムに合わせて動く、イカ男の十本の足と一緒に華麗なステップを踏んでいる。
「お分かりでしょう。こうしてモンゴ13世とあなたのお母さまの間に生まれたのが王子、スルメ6世なのでございます。私どもは、王子に同胞を食べて欲しく無かったので、王子の嗅覚を左右する遺伝子をイカの匂いが嫌いになるように、細工させてもらいました。
けれどもそれだけでは、不安だったので、あなたの従兄弟の意識に働きかけ、トラウマを仕掛けさせてもらいました。全ては王子のためでございました」
ホタル3世はイカ足を、小さな目に近付け、泣くフリをした。
気が着くと、オフクロは鏡の向こうからいなくなっていた。その代わり、オフクロと踊っていた王と思われるイカ男がイカ足をこちらの世界に差し出している。イカ男の代わりにホタル3世が言った。
「さあ、お手をお取り下さい。私達の星に帰りましょう」
とたんに俺の中から何かが込み上げて来た。吐き気だった。吐き気の他にもフツフツと何かが込み上げてきている。
また、オヤジの携帯が鳴った。
「チャラリー、鼻からギューニュー」
その嘉門達夫のダミ声を合図に、俺の中で何かが弾けた。俺は台所にあった椅子をつかみ、鏡に向かって何度も振り下ろした。氷の破片が散るように、鏡は粉々に砕けた。
荒い息をしながら、俺は、自分自身に落ち着くように言い聞かせた。幻覚だ。今見たのは、幻覚だ。
俺は、台所の電気を付けた。そうすると、割れた鏡の破片に埋もれて、一匹のイカが転がっていた。ホタル3世なのか、モンゴ13世なのか、と一瞬思ったが、すぐに俺の中に浮かんだ考えを否定した。幻覚と現実を混同するな、俺。アイツは最初からあそこに転がっていたんだ。
イカ焼き屋の台所に、そのままの姿をした生のイカが転がっているのは、少し、いやかなり不自然だが、あり得ないことではあるまい。
「あふぁ、なんだよう、どーしたんだようあふぁ」
物音に訝しんだオヤジが目を覚まして起きて来た。相当眠そうである。
「悪りい、水飲みに来たら転んじゃって」
散らばる鏡の破片の言い訳にしては、かなり不自然な言葉しか、俺には発せなかった。けれども、寝ぼけたオヤジは「そうか、ケガは無かったか」とだけ言って、台所の戸棚から、ガサゴソと何かを探し出した。
「ホレ、片付けとけ」
そう言ってオヤジが差し出したのは、ポリ袋だった。怒られるかと思ったが、掛け方の不自然さから言ってあの鏡は元々邪魔だったんだろう。これで捨てる口実が出来たと思ったのかもしれない。かなりデカい物音だったが、起きてきたのはオヤジだけだった。暁とオフクロは起きてくる気配もない。こんなんで泥棒にでも入られたらどうするんだ。
オヤジはそのまま、寝に戻るかと思ったが、オヤジは、ポリ袋にせっせと鏡の破片をしまう俺を手伝うでもなく、「腹減ったな」と呟いて、冷蔵庫からイカの一夜干しを出してきて、台所のテーブルで食いはじめた。
食うな!小腹が減って夜中にイカなんか!しかも寝ぼけ眼で!と俺は心の中でツッこんだが、妙な幻覚なんか見てしまった俺自身に動揺していて、言葉になることはなかった。俺の心の中は、ヤバイことになってるのか?大学行って、彼女はいないがソコソコ順調に過ごしていると思っていたけど、無意識には物凄い闇が広がっていたりするのか、俺?
大体、むちゃくちゃな幻覚である。イカの星ってなんだ?そんなマンガとかアニメとか見たことあったっけ?それに、目の前でイカの一夜干し食ってる男を差し置いて、イカが俺のオヤジって。俺の中には、そんな強烈なエディプスコンプレックスが広がっていたとでもいうのか。イカが俺のオヤジなら、このハゲは誰だってんだ?え?俺の無意識!!
すると、俺の目の前にいるオヤジの姿が二重映しに見えた。特に手の所に、吸盤のついた軟体動物の足が見えた。けれども、それはさっき、鏡から出ていた、モンゴ13世の吸盤より遥かに大きいし、足自体も太い。
オッ、俺のオヤジはタコだったのか!