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欠けた月

僕には、両親がいない。小さい頃に死んでしまった。
まだ幼かった僕を育ててくれたのはお姉ちゃんだ。
お父さんの代わりに働いて、お母さんの代わりにゴハンを作ってくれた。
お姉ちゃん、二十五歳。僕、十五歳
僕らは二人で生きてきた。
――だけど。

「お姉ちゃん」
「なぁに?」
 夜遅いというのに、お姉ちゃんは今日もミシンで内職をしている。
「大事な話が、あるんだ」
「……だから、なぁに?」
 抑揚のない声で、手を休めずに答える。僕は少し苛々した。
「ちゃんと聞いてよ」
 幼子が駄々をこねるように、僕は言った。
「聞いてるわ」
 だが、視線すらくれない。
ますます苛々する。
「こんなことして……幾らになるっていうんだ」
 僕は小さく囁くように言った。案の定、彼女の耳には届いていないようだ。
タタタ……とミシンが針を打ちつける音だけが響く。
「どうしたのよ。そんなところに突っ立って……。落ち着きのない、座りなさいな」
「やっぱり聞こえてないじゃないかッ」
「……どうしたというの?」
 僕の大声に、お姉ちゃんはようやく手を休めてこちらを向いた。不思議そうな顔をして、僕を見上げる。
「もういいッ、自分の進路くらい自分で決めるから」
「進路……? そういえばあなた、高校はどこを受験するの?」
「行かない」
「え……?」
「行かない。僕は働くんだ。勉強なんか……嫌いだよ」
「どうしたというの、突然」
 おろおろと、みっともないほどにうろたえる。
長い前髪がはらりと頬に垂れて、大層みすぼらしかった。
「勉強してたってちっともお金にはならないじゃないか。それよりも僕は早く自分でお金を稼ぎたいんだ」
 一気にまくし立てる。
僅かな沈黙が流れた。
お姉ちゃんが、うつむく。黒い髪が簾のように垂れ下がる。実に不快だ。
僕は更に苛々した。殴りたくなった。
と、不意にお姉ちゃんが顔を上げ、言った。
「そう……あなたも、そうなのね」
 垂れ下がる前髪の隙間からのぞくお姉ちゃんの目が、急に鋭くなる。まるで人が変わったかのように。
「私の稼ぎが少ないと言うのでしょう! もっと、もっと稼げと。そして金を寄越せと。お父さんと一緒だわ!」
 今度は、僕がたじろぐ番だった。
「お……父さん?」
 僕には、父の記憶があまりない。五歳くらいの頃に死んでしまった。微かに覚えているのは、よく殴られたということだけだ。
そんな父が、母とお姉ちゃんに何を要求したのか。察しがつかないわけではない。
「私はこんなに働いている! あなたに不自由させないように! それなのにまだ足りないの?これ以上……これ以上何が望みなのよ。私、もう疲れた……疲れたのよ……」
 普段、何も考えていないような、ぼんやりとした顔しか見せないお姉ちゃんが、怒り、そして泣く。不思議な光景だった。初めて見る――他人のようだった。
「そういうことじゃ――」
「うふ……ふふふ……」
 今度は、肩を揺らして笑い出す。
僕の言い訳も聞かないで。
「うふふ、うふふ……。そうね、まだお金を稼ぐ方法があったわね」
 あはは、あはは、あはは。
狂ったように、お姉ちゃんは笑う。嗤う。わらう。
壊れた玩具のように、いつまでも、いつまでも。
そして唐突に笑うのをやめ、ぐいと僕の胸座を掴むと、
そのまま力任せに押し倒してきた。もう、わけが分からない。
馬乗りになり、僕の耳元に唇を寄せて囁く。
「久し振りだから、思い出さなきゃいけないわ……手伝ってくれるわね?」
「なッ、何を――」
 僕の疑問の声は、唇で掻き消された。
そして、ぬるりと侵入してくる、温かい舌。
ぐちゅり、と唾液の音がした。
ああ、力が抜ける。
気持ち悪い。だけど、ぼうっとする。
頭が揺れる。溶ける。腐る。呆ける。眩む。
唇が、頬へ、首へ、鎖骨へ、胸へ、移動する。ぬるぬる、ぬるぬると、蝸牛のように。
お姉ちゃん――。
 僕はただ、ぼくは、ただ、ただ――。

 窓硝子越しに、逆さまの夜空が見える。
そこに浮かぶのは、欠けた月。
逆さに嗤う、欠けた月。
お姉ちゃん。
僕らは、狂っているのだね。
押し寄せる快感と狂気の波に、僕はゆっくりと気を失った。

僕はただ、お姉ちゃんを楽にしてあげたかっただけなのに。