Novel

TOP > ノベル > 頂き物 > 短編 > 濃緑と紅

濃緑と紅

 傘を折り畳みながら、少年は男の車に乗り込む。男の顔は暗がりで良く見えない。痩せたシルエットと少し切れ長のだけがぼんやりと浮かんでいる。
ワイパーが振れる度に、雨がフロント硝子の上を波形を描きながら、滑り落ちていく。メーターやエアコンの表示板の緑と室内に絡み付くタバコの匂い。そしてカーステレオから流れる音楽が沈黙の代わりに二人の間に横たわっていた。声から桑田圭祐だと分かったが、少年は聞いたことの無い曲だった。アルバムに収録されている曲なのだろう。相変わらず聞き取りにくい歌声だったが、極楽寺と言ったところだけは聞き取れた。

「鎌倉ですね」
少年は、独り言のように呟いて話し掛けた。
「ああ」
「極楽寺って、江ノ電の駅にありますよね。逗子に叔父がいるんです。降りたことはないんですけど、駅名は目にしたことがあって」
「近くには、その極楽寺しかない。こぢんまりとした質素な寺だ。茅葺きの山門には二つ扉がついているが、俺が行った時は大きな方の扉は開いていなかった。腰を屈めなければ入れない小さな方の扉を潜ると、続いていたのは、江ノ電の窓から見えたのと同じ、深い緑だった。緑の中で、朱い百日紅(サルスベリ)が咲き誇っていた」
「鎌倉とか、湘南とかよく行かれるんですか」
「たまにな」
「電車で?」
「いや、この車で。もっとも、現地まで車で行って、後は電車で動いたりもする」
相変わらず、男の顔は良く見えない。光の加減で、ギアを握る男のやや骨張った手が見えた。スポーツタイプの腕時計の文字盤が緑色に光っていた。
ロレックスを嵌めていないことに、少年は少し安堵を覚えた。

 何をしている人なのだろう、と少年は思ったが、尋ねなかった。聞いても大概の男は自分を少しでも大きく見せようと嘘をつくだけだ。特に娯楽もなく、今だ古いしがらみも残る北関東のこの町で、歪んだ性愛を抱えながら、生きている男など、どんな生活を送っているにしろ、何かが破綻しているのだ。
「僕、八幡宮とか大仏とか、有名な所だけ、遠足で行ったことがあるだけなんですよね」
「寿福寺もいい。横須賀線で鎌倉駅から北鎌倉の間のトンネルに入る手前に見える山門と木々が寿福寺だ。赤い古びた山門と、深い木々が鮮やかに対比する。本堂の近くに行くと木冊があって、そこから先に入ることは出来ない。そこに立って、奥を見ると、足跡を付けることの出来ない萌葱色の芝生の向こうに、本堂は完璧な静寂を保っている。
 鎌倉に行くなら、夏がいい。海の近くで京都程暑くはないし、山と海を城壁代わりにするために作られた小さな都だ。小さな町は夏場、何もかもが緑になる。日陰の苔むした石、切り通しの木漏れ日。やぐらといって、山の斜面を掘って作った墓があるのだが、古えの人々の沈黙も深緑の陰に佇んでいる。歴史の中で流された血も悲しみも、ただ今は、緑が被い尽くしている。そして今立っている私も緑に被われる」
 そこまで言うと、男の顔が少年に近付いてきた。そこで、始めて少年は男の顔立ちを目にした。
「まって、前払いだから」
 少年がそう言うと、男は尻のポケットから財布を出し、三万円を少年のシャツのポケットにねじ込んだ。男はそのまま、少年の白い鎖骨に顔を埋めた。

 荒い息を上げながら、少年は男の話した緑色の古都を思った。少年の耳には蝉時雨が聞こえる。渋い色に輝く古寺の縁で男に抱かれている。庭も、その向こうの山も深い緑に包まれている。庭の一角には百日紅の木がある。そこだけ、朱い花が咲いている。そよ風に吹かれて花は僅かに揺れているが、自分達の劣情に揺れているように思う。
 少年は思った。この男と同じ幻想を共有しているだろう、と。
 この男に今後、二度と会うことは無いだろう。
ただ、一瞬男と同じ幻想を共有した、ということに永遠に近い何かを感じた。